心のタスキをつないで~佐藤敦之さんの特別寄稿~

マラソンランナーの佐藤敦之さんが昔に書いてくださったものが私のPC上に残っていましたのでご紹介したいと思います。

権利が私にあるわけではないので、若干心苦しいのですが、非常に良い文章が世の中にでたほうがいいとおもったのでアップします。

権利者の方がいらっしゃったら下記お問い合わせフォームより御連絡いただけると幸いです。

特別寄稿 

「心のタスキをつないで」 佐藤敦之

※佐藤敦之選手本人が、学生に、また、頑張っている人に、自分想いを伝えることで、エールにしたい・・・と、執筆してくださっています。

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第1回 プロローグ ~ 心のタスキをつないで ~ 

箱根駅伝って…俺にとってなんだったのだろう…?

風が冷たく感じるこの季節になると、ふと考えてしまう。正直言っていい思い出はあまりない。むしろ箱根を早く忘れたい時期があった。箱根を恨んだ時期があった。人はやはり弱いもので都合の悪いことは後回しにしてしまう。

早稲田を卒業して社会人となって2年目だが、箱根が終わって2年目ともいえる。ようやく箱根駅伝と向かい合うことができるようになってきた。

箱根駅伝…。それは私にとって、自分の心と向き合っていくことを教えてくれた「恩師」なのだと思う。

真の心をもって走ること、心をこめて走ることの大切さ、偉大さを、箱根の結果というものにとらわれずに、親身になって教えてくれた「恩師」なのだと思う。

なぜ、そう思うのか?

やはり弱い自分…弱い佐藤敦之を知っているからだと思う。

私は高校時代、インターハイこそ入賞しているが、高校1年の時は不登校をしている。

高校3年のときも不登校をしかけたけが…。あと家出もした…。

自分の思い通りにならないと、逃げ出してしまうことが多かった。

今でも「理想と現実にギャップがある」と坂口さん(現中国電力陸上部監督)によく言われることだが…。

高校3年の県の高校駅伝ではそんなこんなで走りはしたものの、好調時とはほど遠くチームに迷惑をかけたことを鮮明に覚えている。越尾先生(会津高校時代の陸上部の恩師)は私のことを怒らなかったものの、家に帰ってから、正座させられて親にこっぴどく叱られた。「自分のわがままでひとに迷惑をかけるのは許せない」と…。

だから、大学ではせめて駅伝だけはみんなに迷惑をかけないで、きついことを乗り越えられる人間になろう。

それができれば、マラソンランナーとしていつか大成することができる。

そんな願いを箱根駅伝にこめて私の大学時代はスタートした。箱根駅伝を先生と思って…。

よく何故早稲田大学を選んだのかをよく聞かれる。
強いチームだったということもあるが、名マラソンランナー瀬古さん(現ヱスビー陸上部監督)を育て上げた中村先生の教えが受け継がれているということにものすごく魅かれということが大きい。中村先生のことは本で読んだことしかなかったが、人の内面にまで迫って走るということにものすごく感銘をうけた。

この大学なら弱い心を強くすることができると思ったのだ。ただ強ければいいというものではなく、やはり一人の人間として成長できるところを選びたかった。

実際入学してみて遠藤さん(現早稲田大学競走部コーチ)がランナーとはどうあるべきかを、徹底して教えて下さった。遠藤さんのお話には人としてどうあるべきかのお話しが大半を占めていたと思う。同じことを何度も何度も繰り返し話した。遠藤さんのお話を私が暗唱できるくらいまで何度も何度も話した。
「稲穂はたくさん実れば実るほど、頭(こうべ)を垂れるものだ。謙虚な気持ちと感謝の気持ちを忘れずに走って欲しい」

「刀鍛冶が丹精込めて作った日本刀が鉄を鋳型に流し込んだだけの鉄砲を切ったという話がある。同じ鉄と鉄。しかし、日本刀が勝るのは鉄に刀鍛冶の心(魂)を込めるからだ。真剣勝負とよくいうが、真剣と真剣。それは、真の心のぶつかり合いなんだ。」

このふたつの話は特に強烈に覚えている。

遠藤さんは私にランナーとして、人としての心がまえを教えてくれた方なのだ。

「ひとの話を聞いてね、また同じことを言っていると思うのか、以前とは違う感じかたができるようになったかで違ってくるんだよ。どういう気持ち、態度で聞くのか。美しいと思う心がある人には咲いている花を美しいと感じることができる。強くなりたいと思う気持ちがある人には強くなれることを感じ取り実行にうつすことができる。だから、おごらないで、素直な気持ちと、心で聞く耳をもってほしい」

……遠藤さんはかけがえのない私の恩師だ…。

早稲田に入学した当初の話に戻そう。
私が入学したころは「渡辺、小林の両大エースが抜けて…。」

チーム内外から言われていた。私はその話を聞くたびに悔しくて仕方がなかった。

「それじゃあ、この先そういうエースは現れないみたいじゃん」

本当に記録が図ば抜けていたし、きちんと勝利の鍵となる走りをされていたから…実力がなかった私は一歩でもいいから二人の大先輩に追いつこうと思った。そしていつかは何でもいいから二人を追い越そうと思った。

当時は、人の倍は努力する。人がやらない努力をする。

そうすれば弱い自分とさよならできる。

そんな風に思っていた「佐藤敦之」だった。

苦しいときは駅伝で迷惑をかけたくない。自分が自分でないような高校時代の自分に戻りたくない。

つまりは自分を変えたいという気持ちが強かったのだと思う。

変えられるものがあれば一目散にとびついていった。

ものすごく気持ちが飢えていたのだと思う。

考えるより先に行動に移していたから「がむしゃら」だった。

がむしゃらすぎてよく先輩にしかられた。「お前は猪突猛進だ」と。また、先輩が「駅伝は縦(上級生、下級生)のつながりと横(同学年)のつながりが大切なんだ」と言ったら、私は「斜めのつながりの方がてっとり早いじゃないですかぁ~」と本当にああ言えばこう言うだった。もちろんそのあとご指導があったが…。

確かに今振り返ると、いけない部分はたくさんあったとは思う。
しかし、ものすごくエネルギーがあったと思う。

なぜ、エネルギーがあるのか?

それは変わりたいという気持ちがあったからだと思う。

電気もそうだが、何らかの変化を起こさない限りエネルギーは発生しない。

変化、変化、変化して力となる。

当時はそのことに気づいていなかったが、自然と力を発揮するエネルギーを作っていった。

初めての箱根も経験した。1区区間3位。

区間賞を獲りたかったが獲れなかった。悔しくて、寮に帰ってから1時間走った。

そして優勝することができなかったことに対しては悔しさよりもむなしさを感じた。

大手町から空を見上げて「本当の喜びは優勝しないと味わえないのかなぁ…来年の俺はどういう気持ちで大手町から空を見上げているのだろう」

箱根駅伝って何だろう…?

まだ他人事のようにしか箱根をみることができなかった私には知る由もなかった。

第2回 私にエースとは“何か”を教えてくれたひと

大学1年の箱根で感じたことはたくさんあったが、私のこころに強烈に訴えかけたのは

「ワセダのエース、梅木蔵雄の走り」 

…梅木さん(現:中国電力)の走りだった…。

梅木さんは私が一年のときの四年生の先輩だ。

今、また中国電力で一緒に競技を続けている。

私にとっての「最初の箱根」は、梅木さんにとって「最後の箱根」だった。

梅木さんは2区(23キロ)を走り、1時間7分48秒で区間賞…。

当時歴代4位(たぶん…)の好記録で区間賞をもぎ取った…。

三代直樹さん(順大→現:富士通)、藤田敦史さん(駒大→現:富士通)、山本祐樹さん(日大→現:旭化成)と、学生長距離界をリードするライバルがひしめき合う中での区間賞で、まさに圧巻だった…。

しかし、私の「こころ」に響いたのは区間賞やタイムではない。あの時の梅木さんの走り・・・。

いや、「ワセダのエース、梅木蔵雄の走り」だった…。

そこには彼の意地があった…。

プライドがあった…。

そして、想いがあった…。

「佐藤敦之」には負けられない意地…。

「ワセダのエース」としての「プライド」。

そして何より…「学生長距離界のエースとして卒業したい」という痛烈な想いがあったのだ…。

「佐藤敦之」には負けられない意地・・・。
私自身には1年のときは全くと言っていいほど、2区を走ろうという気はなかった。とりあえず箱根が走れればいい。そもそも「二区」を走る自信などなかったのだ。

しかし、梅木さんはその全く逆だった…。

是が非でも「二区」を走りたい。1年、2年、3年と渡辺康幸さん(現:ヱスビー食品)小林雅幸さん(現:三井海上)の両大エースにことごとく阻まれた「二区の壁」。

やっと巡ってきたチャンス。

それを箱根すらよくわからない1年の「佐藤敦之」に譲るわけには絶対にいかないと…。

「ワセダにエース梅木蔵雄」として…。

10月の駅伝シーズン(出雲、全日本)に入ってから私はうなぎのぼりで調子が上がっていった。

そして、練習で梅木さんを脅かすようになっていた。試合でも府中20キロ(現在は府中ハーフ)を60分48秒で優勝している。当初、チームの誰もが「二区は梅木だろう」という感じだったが、

「敦之も、もしかしたら二区にいけるんじゃないか」

本人は全くその気がないのにそんな雰囲気になっていった…。ただ私は、練習から全力投球で臨まないと箱根でいい走りができないと思っていたので、ひたすら、自らを追い込むだけだったのだ。

その何も考えないでひたすら追い込んでいく「佐藤敦之」の姿に、

梅木さんは危機感を感じたそうだ。

「もしかしたら…二区を…」

しかし、やはり梅木さんが二区を走るのがふさわしいと決定づけた出来事があった。
箱根前の「20kトライアル」だ。

二人とも調子がよかった…。

絶好調で怖いもの知らずの「佐藤敦之」は最初から飛ばしていく。飛ばしていくというよりは、むしろ…最初から全力で…。

5キロ通過したあたりで、すでに「ワセダのエース梅木蔵雄」とのマッチレースとなった。

併走がずっと続くなか、均衡はついに破れた…。

15キロ過ぎ、「梅木蔵雄」の呼吸が荒くなったと感じた「佐藤敦之」はここしかないと思い、口火を切ったかのようにスパートした。

差はみるみるうちに開き残り3キロで差は10秒と開いた。

タイム計測をしていたマネージャーもここのままいくだろうと思ったそうだ。

しかし、

「意地」「エース」「想い」が、

「梅木蔵雄」の心を奮い立たせた。

「学生長距離界のエースとして卒業したいんだ」と・・・。

10秒差が少しずつ縮まっていく。7秒、5秒、2秒 – – – そして・・・

ラスト700米でついに「佐藤敦之」をとらえた。

単に全力で追い込んで負けたくない「佐藤敦之」の意地、「エース」としての「梅木蔵雄」のぶつかり合いだった。

そして、ついにラスト百米で梅木さんが私をかわし梅木、1秒差で佐藤の順でゴールした。

遠藤さん(早稲田大学競走部ヘッドコーチ)はそんな二人の走りを指導者という立場を忘れ、

あたかも観戦者のように嬉しそうにみていたのを鮮明に憶えている…。

箱根の結果は先に述べたとおり、梅木さんの走りは「ワセダのエースを超えて学生長距離界のエース」と呼んでふさわしい走りだった。梅木さんの走りを私は1区を走ったあと車の中の携帯テレビでみていた。
日本テレビのアナウンサー、船越さんの実況が頭から離れない

「・・・ワセダのエースは即ち学生長距離界のエース。ワセダ、ワセダ、早稲田のエースとして卒業したい。あの渡辺康幸、小林雅幸のようにワセダのエースと呼ばれて卒業したいんだ。そして日の丸を背負うランナーを目指したいんです…梅木は熱く語っていました・・・。」と。

その言葉に身震いを感じた。

ふだん口数の少なかった梅木さんは、走り、即ち「エースという姿」で「エース」というものは、

こういうものなんだと教えてくれた・・・いや、伝えてくれたのだと思う。

「次のワセダのエースはお前なんだ、佐藤敦之が受け継げと・・・」

そんな気がした…。

車の中…偶然か、出会いなのかよく判らないが、中国電力に入社が内定していた梅木さんの走りを見に来られていた坂口さん(現:中国電力陸上部監督、早稲田を出て、ヱスビー食品で競技を続けた。遠藤コーチと同い年、中村門下生の一人)が同乗されていた…。

前歯が大きい人だな…と思った。

梅木さんの走りから梅木さんの心を見透かすかのような目つきでテレビをみていたのを憶えている。

まさか、4年後… 私の指導者になるとは思いもよらなかった。

何かの縁だったのかもしれない。

箱根が終わって1月の中旬だった頃だろうか、大学の体育会の部ならどこでもやる「追いコン(追い出しコンパ)」が競走部でもあった。もちろんお酒も飲んでドンちゃん騒ぎになるのだが…。追いコンも終わりに近づいた頃、時既に遅し…みなさん出来上がっているのだが、梅木さんが私のところにきていきなり抱きついて号泣し始めた。

「敦之がいなかったらあんな走りはできなかった。敦之が俺を変えてくれた。ありがとう。」

私はどう対応していいか分からずじまいであったが、「日の丸つけて走ってくださいね、いつか同じ日の丸つけて走りましょうね!」私も多少酔っていたのと、先輩に追いコンの段取りが悪くて叱られてへこんでいたので、定かではないが「世界を目指す」そのようなことを言ったと思う。

梅木さんは、走りを通して

「エースとは力だけじゃない、エースとしてのプライドをもって走るんだ」

ということを教えてくれた。

梅木さんはかけがえのない私の「先輩」だ。

1年の箱根のあとの「佐藤敦之」の目標は「梅木超え」だった。

早稲田スポーツがだしている新聞の表紙に梅木さんが大きく載っていたので、

「梅木」という字のところに「打倒」と「ング」と付け足し

「打倒梅木ング!」として、

私はまたがむしゃらに頑張っていった。

しかし、そんなにがむしゃらさが続くものじゃないということを、

二年目にことごとく思い知らされたのだった・・・。

「故障」 「責任」 「屈辱」。

第3回 ならぬことはならぬ

学生時代は箱根が終わると、いつも年を越したような感覚になっていた。

1月3日に原宿の部室(通称:原宿マンション、略して原マン…)で打ち上げがあり、1月4日に部室を掃除し、新体制となって、そこで解散となっていた。

1月3日の夜は、毎年、松岡宏(早稲田学院から早稲田へ、競走部時代の同期。2001年の箱根8区を走り66分25秒で区間8位)の家が近かったので、毎年泊めてもらって次の日の朝練習をして、松岡家のおせち料理とお雑煮を頂くのが楽しみだった。

家族の暖かさを感じ取ることができるひと時だった…。

1月4日、松岡家から部室まで歩いていると会社へ出勤するひとたちとすれちがった。

「あぁ…。世間の正月はおわったんだ…。」と少し淋しさがあった。

学年は、もちろん4月に変わるのだが、私のなかでの2年目はやはり1月4日からであった。

部室を掃除し、新体制のミーティングのあと解散になる。

皆それぞれ開放感にひたって、部室をあとにしていく。実家にでも帰り、親や友人たちと再会したりして遅い正月を迎える。だが、私は実家に帰っていない…。4日の新体制のミーティングの中で「敦之は都道府県駅伝があるから、4日に30k、7日に1000m10本をやるから・・・」と遠藤さんに告げられたのだ。

「みんながのんびりするところで気を緩めずに努力すれば差をつけることができるからいいや・・・。みんなは箱根で満足かもしれないけれど、俺は将来マラソンを走りたいから箱根で満足せず、学生での勝負ではなく、まずは実業団の選手たちと対等に闘える力をつけていこう。

下をみるのではなく、しっかり上を見据えて…。

より大きくより強いものに勝負を挑んでいこう・・・。」

そう思っていたので、別に実家に帰りたいとは思わなかった。ある意味、友人と再開したいという気があまりなかったから協調性がないとも言えるのだが…。

今でも時々、私はそのことで葛藤する。「和を大切にするのか・・・自分を貫き通すのか・・・」と。

ただ、遠藤さんや坂口さんたちが学生のころも二人は4日から練習があったそうだ。中村先生はよく次のことを口にされていたらしい・・・。

「おまえら、箱根駅伝なんて単なる関東のお祭りなんだ。お祭りにいつまでもひたっているんじゃない。瀬古のように世界を目指すランナーにならんといかん。君らはすぐに瀬古のようにまでとはいかないまでも、出場する試合はおなじ学生の日本人には絶対に負けちゃいかん!絶対に勝て!」

中村先生の要求に遠藤さんも坂口さんも応えなければならなかった。二人は結果としてしっかり応えた…。そのような中で競技をされていたので二人とも私に言う。

「今の選手のやっていることなんて甘いよ・・・。競技に対しても、生活面にしても・・・」と。

だから、箱根が終わっても練習するのは当たり前。その気持ちを大切にしようと私は思った。

そんなこんなで私は箱根後も少しでも強くなるためと思って走り続けた。

しかし、気持ちではそう思っていても、体はしだいに走ることを拒み続けようとした。

箱根駅伝以降、1月18日に広島で行われる都道府県駅伝に福島代表として出場するため練習していた。そして都道府県駅伝が終わったあとは、2月中旬におこなわれる青梅マラソン30kに出場する計画をたてていた。

練習で走れることは走れるのだが、疲れがぬけない状態。

気持ちもずっとイライラしている状態で、走りたいではなく、走らねばという、一種の義務のような心境になっていた。

マッサージしてくれているトレーナーの方も「あっくん、体が疲れているから少し休んだほうがいいよ。あれだけ頑張っていたんだから…。」とおっしゃっていた。

しかし私は、まだまだ頑張りが足りない、ここで満足したら頑張れなくなると思っていたから、その忠告に耳を傾けることができなかった・・・。都道府県駅伝は3区(当時は9.2k)を走り26分40秒で区間8位。実業団の選手がいる中でこの順位だったので個人的にはまずまずの結果だった。

しかし、そのあとすぐに体が悲鳴をあげた。

故障 - 右ひざを痛めてしまった。

「そんなにからだをいじめないでくれよ。少しはいたわってくれよ」

身体は、そんなことを言いたかったのかもしれない。今振り返ると、そう思う。

1月の終わりに故障して、そのあと私は7月までずっと満足に走ることができなかった。ある程度までは治るのだが、また走ると違う箇所を痛めてしまって・・・走れない。その繰り返しだった。

最初のころは疲れがあっての故障だから疲れがぬければ痛みもとれて走れるだろうと気持ちに余裕があったが、怪我が1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と経つにつれてだんだん焦りはじめてきた。特に3月、暖かくなりトラックシーズンの時期が近いた頃にはまた高校のときのような弱い「佐藤敦之」がまた現れ始めた。

自分が自分でないような自分…。殻に閉じこもる自分…。

ただ、このような状態を二度経験しているので、何となくなっている原因が分っていた。

簡単なのだ。

「自分を追い込みすぎ、いじめすぎ・・・」

1年の箱根前の10月、11月は、ともに月間で950kを走っている。今では別に最低でも走るほどの練習量だが。大学1年といえば、まだ高校を卒業して二十歳に満たない発育途上の十九歳の身体。年齢に見合った練習量ではなかった。

しかも1年生といえば、寮の当番の仕事などがあり、週に2,3回であったが、当番の日は、6時から仕事があったので、朝4時30分に起床して朝練習をしていた。当番の仕事、学校の授業、そして練習と本当に朝から晩まで休む暇のない生活だった。

当番は二人一組で行っていたが、相方に「頼む!10分間だけ仕事変わって寝かせてくれ!」そこまでして寝るということもあった。当番の仕事は、朝の掃除からはじまり、先輩を起こしにいったり、ごみだし、先輩へのお茶だし、電話番、風呂のお湯いれなど、まぁどこの大学でもやっていることではあったが、様々な仕事があった。電話は3コール以内で取らなければ当番やり直し、掃除が汚かったらは当たり前、郵便物の配布がひとつでも忘れていたらやり直しなど「ワセダ当番特別ルール」が盛りだくさんで、緊張感というよりはスリルのある生活だった。

もちろん、1年生がしっかり仕事をしなければ、消灯後に2年生からのご指導があったのだが・・・。体育会は・・・とよく批判めいたことをよく聞くが、私は生活のなかで人間としての基本を学べるということは決して悪いことではないと思う。お茶だしなどにしても両手を添えてお茶をだすとか、先輩が一番取りやすいところにお茶をお出しする。電話番などでも相手にとっては早く電話にでてもらった方が都合がよいし、電話での対応、敬語の使い方などをしっかり学ぶことができる。「はい、こちら早稲田大学競走部合宿所1年佐藤です…。」「少々お待ちください…。」「○○さん、◎◎さまよりお電話です…。」と何度言ったことやら・・・。ちょうど携帯電話が流行り始めた頃で、先輩たちの1コール切りのいたずらなどがあった・・(怒)

とにかく、いろんなことに耐えたり、我慢したり、叱られたりではあったが、本当にきれいにする。片付ける。先輩を敬う(あんまりできてなかったが・・・)。しっかり連絡事項を伝える。最低限、「社会で生きる基本」を学ぶことができてよかったと思う。

話がだいぶ反れてしまったが、大事なことだったので…。そのような当番の仕事をこなし練習量は上級生並みにこなして毎日が全力投球の日々。もちろん休みの日もどこにもいかず、走ったりしていた。いま、考えても「よぉやっていたわぁ~」と思える日々。

気持ちと体を酷使しすぎて、焼ききれた。

2年目の故障はそんな状態で起きたのだった・・・。

このような状態になると、身体だけならまだしも、気持ち、「こころ」にまで影響が及んでくる。

生活自体が苦しくなる。

普段できていたことが億劫になっていく。

怠けるつもりはぜんぜんないのに怠けているように感じてしまって、

「以前より努力していない・・・」「自分の気持ちに負けている・・・」

どんどん自分を責めていってしまって、まさに火の車状態…。

「ダメ人間。」と自分を思い込んでしまい、人前にそういう自分をみせたくないから自分の殻に閉じこもってしまう。

「弱い佐藤敦之」とはそんなものだった・・・。

だから気持ちを守ろう(防衛)と、食べることで何とか気を紛らそうとしていた。大学に入っての唯一の楽しみは「パン屋さんめぐり」だった。治療で所沢から東京まで行くとき駅の近くにはパン屋が必ずあったので、そこでパンを買って食べる。いろんなパンを買ってどんな味がするのか、どこの店がおいしいのか食べ歩くのが楽しみだった・・・。

(**中でも「アンデルセン」の「クルミブレッド」が好きだった。広島に来て分かったことであるが、「アンデルセン」の本店は広島なのだそうだ。広島にはやはり縁があった。こんなことまで・・・。今は「ケーキ屋さんめぐり」にバージョンアップ!!***)

走れている時はそれでよかったのだが、故障して走れない状態であると運動量が減る。減れば消費量のおのずと減ってしまうので食べる量を減らさなければ、体重が増えてしまう。

「弱い佐藤敦之」は走れないという辛さに耐えきれず、パンを食べることで欲求を満たしていた。

故障して、東京に治療に行くたびに食べていたので、体重は増える一方・・・。ベストの体重より6キロほど太った時があった。パンを食べるときは無我夢中で、食べ終わったら

「なんで我慢できずに食べてしまったのだろう。俺はダメ人間だ・・・」と罪悪感に入り浸っていた。

ただ、「まだ高校のときよりはマシだ・・・食べることができるし、生活もできている。練習にも参加して補強とか水泳など最低限のことはやっている」

それが唯一の救いだった。

全く自分をコントロールできなくなった「佐藤敦之」から比べれば・・・。

高校時代・・・。

私の場合、二度と戻りたくない時代だ・・・。不登校したり。家出したり。できないことを親のせいにしたり。荒んだ心ばかりがみえた高校時代だった。

私は会津高校ではなく、本当は駅伝の強い高校に進みたかった。中学で全国優勝していたこともあって、もっと強くなりたかった。強い高校の練習をやれば必ず強くなれる。その力で大学にすすめばいいと思っていた。しかし両親が許さなかった。

「大学でも走りたいのなら高校をでるまでは親元で過ごしなさい。」

断固として、特に親父は私の意見に耳を傾けることなく「親父」としての姿勢を崩さなかった。

「かわいい子には、旅させろ!っていうじゃないか!旅をさせたほうが人間として大きくなるのにどうしてだめなの?親父の考えていることがぜんぜんわからないよ!」と私は親父に真っ向から反発した・・・。

私の生まれ育った会津には会津藩から伝わっている古くからの子供へのしつけがある。

「ならぬことはならぬ・・・」

許せないものは許せない。小さいころからそのようにしつけられた。

食べ物に対しての好き嫌いは許されなかった。家族で食事をしているとき食べるのが遅いと一人台所に連れていかれて食べされられた。すべて食べ終えるまで・・・。兄は食欲旺盛であったが、幼いころの私は少食だったのでよく比較され叱られたものだ。

自分の駅伝の強い高校に進み、走りで大学へ進むという考えは決して間違っていないと思っていたので、かなり親と対立した。そして自分の希望高校にすすませてくれない親・・・

父を恨んだ。

親の言う通り、会津高校にすすんだものの、なかなか高校になじめなかった。確かに陸上部は短距離、投擲系は強く過去にインターハイでも入賞者をだしている。しかし、長距離は強くなかった。ただ、入れ違いではあったが、早稲田でも先輩である荒川誠さん(3000MSCインターハイ4位)が会津高校だったということもあって、何とかできそうかなと思って会津高校を決めた。

会津高校の校訓は「文武不岐(ぶんぶ・ふき)」。「文学」と「武道」には分かれはない。同じ「道」…。ということで「文武両道」ということになるのだが…。また自主性をやたらと重んじていて、陸上部の練習も生徒がメニューを立てるという形だった。

どちらかというと高校の雰囲気として、「文武不岐」という校訓はあったものの、部活は息抜きの場所としての意味合いが強かった。

陸上部の仲間もそんな雰囲気が強かった。(今の会津高校陸上部は強くまさしく「文武不岐」があてはあまる)

長距離の部員に何がかんでも強くなってやるという人は、ほとんどいなかった。「そこそこで・・・」そんな雰囲気だった。だから私は「同じ雰囲気の中でやっていたら強くなれない、ひとりでやらなくては・・・」そんな気持ちでいたから、高校の友達や先生になかなか心を開くことができなかった。

「どうせ、俺の考えを話したって分かってくれやしないんだ!」と・・・。

今考えるとほんとに、気持ちが幼く、貧しかったと思う。

しかし、「どんな状況下でも自分を貫く!」という強固の姿勢は高校時代に培ったものだと思う…。

いや、「会津高校」が私に贈ってくれたものなのかもしれない。

高校に入学してすぐに私は、練習は何をしてよいのか分からない、というよりは自分のやっている練習に対してまず自信がない。

実際走れない。中学校のときのライバルには差をつけられる。

勉強も思うようにできない。

「できない・・・できない・・で・き・な・い。」のオンパレードになっていった。

「自己否定」「自信喪失」

わずか3ヶ月ほどで自分-「佐藤敦之」というものを見失ってしまった。

「不登校」。

中学の卒業文集にわたしは「この先、大きな困難が待ち受けているかもしれない。しかしその困難にくじけず乗り越えられる人間になりたい。」と記している。

それが早くも自分の信念が崩れた・・・。情けない・・・。弱い・・・。

そんな「弱い佐藤敦之」をみんなバカにしているんじゃないか。頑張れなくなってしまっていたので、友達や先生に「頑張れよ!」と声をかけられると涙がこみあげてきて、涙をこらえるのがやっとだった。

空をみあげて・・・。

そんな精神状態になってしまいついに6月、私は学校に行くことができなくなった。

人に顔を合わすことが怖かった。

「会いたくない。会ってもなかなか分かってもらえない。」

お先真っ暗で「この先俺はどうすればいいんだろう」「こんな気持ちが弱くては何をやってもダメだし」

家の中でもんもんとしていた。すごく親に心配をかけてしまった。

ただあの時は、自分のことで精一杯・・・いや自分のことでさえ満足にできなかったので親の心配を理解するなど、無理な話だった。両親は学校と連絡を密にしながら、母の提案で精神科に通うことにした。父は多少抵抗があったようだが。私の担当の先生は星野先生という方だった。優しい方だった。いつも私に「今、元気なときを100とすると今はどのくらいかな」という質問だった。最初わたしは「30くらいです・・・」と答えたのを覚えている。

「そうか、これが70~80くらいになると、自分でできるようになる。それまで、少しこころにあいだをあけて待つんだよ」と星野先生がおっしゃった。

何もしない。したくなるまで待つ。

両親も不安であったが先生を信じて待つことにした。心身ともに疲れきっていたこともあって最初のころは1日中寝ていたこともあった。

週に1回通い、毎回「今はどのくらいかな」と聞かれた。

少しずつ、40、50とあがっていった。最初は寝ているだけであったが、漫画などが読めるようになってきた。ただ、やはり人には会いたくなかった。夏休みはずっと家の中にいたと思う。50、60、70と直線的に上がっていくものではなかった上がり下がりを繰り返して少しずつ上がっていった。

あの時は声にはきがなく、顔色も悪かった。

70くらいになった時「また頑張れるかな・・」と思えるようになってきた。しかし今一歩、勇気をだして前に進むことができなかった。なかなか前に進めないことにまた自信をなくす。

あと少しなのに、一歩を踏み出せない。

踏み出すことには「きっかけ」誰かの一押しが必要だった。「きっかけ」をつくってくれたひと。

それは、中学校のとき1,2年と陸上部顧問をされていた川島宏先生と私が1年生だったころの陸上部の顧問の小島先生だった。

ふたりの先生。

いや、ふたりの恩師との出来事は決して忘れることができない・・・。

川島先生は家に閉じこもっていた私を山登りに連れていってくれた。2,3ヶ月、ぜんぜん運動していなかった私は山を登るだけで、息がゼイゼイあがってしまった。少し運動しようかな・・・と思った。頂上まで登って見渡した景色はすばらしくきれいだった。

空には「ほんとうの空」があった。

頂上で先生と食べたおにぎりも格別においしかった。久々のご飯のおいしさ。久々にかいた汗。努力したあとの喜び。努力しなければ味わえないことを身をもって教えてくれたのだと思う。そして山の頂から川島先生は話しはじめた。

「あのな、あつし、立派な盆栽をつくるときはな、一度本当によくなるものだけを残して斬ってしまうらしいんだ。そうするとな、根を下へ下へ必死になって伸ばそうとするんだ。自分の力で。しっかりとした根っこを生やして。そしてたくさんの栄養を吸って大輪の花を咲かせるんだ。

だからな、敦之・・。おまえは今本当に立派な人間になるために、痛いかもしれないけれど、すべてを斬りおとしたんだ。しっかりとした根っこを生やすために。そして大輪の花をさかせるために・・・」

頑なに閉じていた私のこころを少しずつ開いてくれた。また厳しく「弱いから努力しなくちゃいけないんだぞ。強かったら別に努力する必要がないんだ。」と。

私は自分が情けなくてわんわん泣いた・・。

そして私がまた学校に行く勇気を最後に後押ししてくれたのが小島先生だった。家にきてくださった。

「なぁぁ~、あつしぃぃ。そんなずぅっと人生絶好調なんてありゃしないよぉ。みんなとわいわいガヤガヤやりながらやろうよぉ。その方が楽しいじゃないかぁ。人生のんびりいかないと息切れしちゃうよぉ。高校だったら3年目に走れればいいと思えばいいんだよぉ。それがだめだったら、大学で、それでもだめなら社会人で、いざとなったら年老いたときに走れればいいぃんだよぉ。それでいいじゃないかぁ。楽しくいこうよぉ・・・」

独特の小島ぶしであったが、すうぅと気持ちが軽くなった。

なんて俺は目先のことにとらわれていたのだろう。

みんなとわいわいがやがやしながら・・・そうしながら、がんばればいい。

そうしよう。

それならできる気がする。

そう思えた・・・。

9月、私はまた学校に行き始めた。のんびりと・・・。

ちなみに小島先生の私に走ることへのアドバイスはふたつだけだった。

「リラックスあんどスマイル」だけ。

怪我に対しては「怪我をしないようにうまくやるんだぞぉ」だけ。

細かいことにこせこせしないおおらかな先生だった。「リラックスあんどスマイル・・・」究極のアドバイスだと今は思う・・・。行き着いたのが「ほほ笑み走法」なもので・・(冷汗)。

高校のあの時から思えば、今の苦しさはなんでもない。

ダメになったらあそこまで戻ればいい。

きっとまた走れるようになる。

へこんだり、体重6キロオーバーということはあったが、何とか自分で自分を励まして、2年目の冬から春にかけての長い故障を乗り越えることができた。

「ちょっとは成長できたかな」

と思うことができた。

故障が癒え走り始めたころには季節はもう夏になっていた・・・。

走りこみの夏。

「佐藤敦之」はまた「練習の虫」へと戻っていった。

そして思い出したかのように「梅木越え」を目指して・・・。

第4回 夏の思い出

夏・・学生にとって、(社会人になってもそうだが)、夏は走り込みの季節だ。

一年の中でいちばん走り込む季節だ。ランナー(学ぶひと)ならこの時期とことん身体をいじめ、より強靭な身体を作り上げていく・・。

二年目(大学2年)の前半をことごとく故障で棒に振った私は、前半の遅れを取り戻そうと「夏」に期待していた。

早稲田の夏・・つまり「合宿」のことをさすのだが、学校の前期試験が終わった7月20日ころから毎年、遠藤さんの故郷、秋田の平鹿町で「夏」はスタートした・・。

平鹿町の町民研修施設を宿泊場所とし、町民グランドを拠点に周回コース(ロード)を利用してトレーニングをする。水がとてもきれいなところであたり一面美しい田園風景が広がっていた・・。食事は町民の方々が作ってくださった。毎食でてくるご飯がものすごくおいしかった。

へとへとになるまで走りこんでも愛情たっぷりのご飯によって疲れは一気に吹っ飛んだ・・。

おふくろの味だ・・。親元を離れている学生にとってこれほど、うれしい食事はなかった。毎食、毎食、何がでるのか楽しみだった・・。お米はつやがあり、おかずがなくても「ごはん」だけで食べられるくらいおいしかった。

ほかにも、てづくりの無添加の梅ジュース、三角ちまき、平鹿町でとれた新鮮なやさいと、どれもこれも手間暇かけて作ってくださったものばかりで「おいしい」と顔がほころぶ「おいしさ」があった・・・。

早稲田の「夏」は徹底的に走りこむ。特に私が早稲田に入学した年からいよいよ「大エース」がいなくなったということで、遠藤さんもいろいろ試行錯誤されていた。

「遠藤改革」のはじまりは私が入学した年が最初だったと思う。

4年間は遠藤さんと共に試行錯誤した気がする。

いろいろ・・たくさん・・・共に・・一緒に・・失敗・・成功・・したと思う・・。

練習内容に関してはふせておくが、「新たなもの」に挑戦していったと思う。

より厳しく叩き上げる・・戦力ダウンが否めない当時としてはこうするしかなかった・・。

私の「二年の夏」はまずは体重を落とすこと、そしてまたじっくり走りこんで、もう一度「土台」を作り直すことが課題だった・・。最初はウエイトオーバーで体が重く、走るだけで筋肉痛だった・・。でも、

「こんなことは初めてのことじゃない・・。高校時代から何度も経験していること・・。また最初からこつこつやればいいんだ・・。最初に戻って・・。」

自分で自分に言い聞かせながら・・・こつこつ・・・とことこ・・・走った。秋田合宿は一週間と短いものであったが、とても内容の濃い合宿だった・・。

秋田合宿終了後、待ちに待った「解散」となる。約一週間ほどの解散・・。皆、思い思いの休暇を過ごす・・。私は実家に帰ることにした。久々の実家・・本当に楽しみだった・・。

秋田新幹線に乗り、他の部員は東京まで戻るが、私の実家は福島の会津なので、途中「郡山駅」で下車し、みんなを見送り、それから在来線の乗り換え実家へと向かった・・。

実家まで向かう途中、車窓からは会津のシンボル「磐梯山」、「猪苗代湖」がみえてくる。よく母が小さいころ私に言ったものだ。

「何かね、私が学生のとき仙台から会津に帰ってくるときにね・・。トンネルをぬけて、磐梯山が見えたときに、あぁ、やっと会津に帰ってきたなぁって思えるの。あなたにはその気持ち、まだ・・分からないでしょうねぇ・・。」小さいころ、母の言ったことが「磐梯山」を見るたびに思い出す・・。

「あぁ、やっと会津に帰ってきた・・。」

私は秋田合宿の最終日に女子マネージャーをされていた勝山さんに、こう質問された。

「あっくん、解散中は何をするの?」

私はその質問に即答だった・・。

「解散じゃないですよぉ~。僕の合宿は実家で続くんです!少しでも遅れを取り戻したいんです!でも楽しみなんですよねぇ。母校に顔をだして後輩たちと一緒に練習するの・・早く帰って合宿したいなぁ~!」

笑顔で答えていたのを覚えている。

秋田合宿の終わるころにはすでに「佐藤敦之」は「練習の虫」に戻っていた・・。誰よりも目を輝かせて・・。

実家に帰った次の日から、母校会津高校に顔をだした。母校に行くと今でも複雑な気持ちになる。高校生活に戸惑い、心を閉ざしていた「佐藤敦之」がそこにいる。けれど、自分の道をもがきながら、さ迷い続けながら必死に探し続けた自分がいる・・。

過去には戻りたくはないけれど、未来に「こころ」をつないでくれた「佐藤敦之」が会津高校で私を迎えてくれた・・。

そんな気がした・・。

一応、解散中の練習メニューは遠藤さんからでていた。私はそのメニューに「プラス」してトレーニングをした。例えば、30キロのメニューだったら、朝25キロ走り、午後30キロ・・。400m10本だったら、朝に20キロ走を加える。1000m8本だったたら午後に120分走を加えるなど、合宿に近い形にして「工夫」していった・・・。

「工夫」、「プラス」これらは会津高校で培ったことだ・・。その「工夫」と「プラス」の持ち味を最大限にひきだしてくれたのが、会津高校陸上部の恩師、越尾咲男先生だった・・。

母校に帰ると越尾先生はいつも暖かく迎えてくれた。「よくきたなぁ~」とこころから喜んでくださった・・。普段は体育教官室にいつもいらっしゃるのだが、体育教官室に私が顔をだすたび、いつも先生がお茶をだしてくれた。

越尾先生は決して「俺は先生だ!言うこと聞け!」という先生ではなかった。「生徒と同じ目線」で考えてくださる。おおらかな先生だった・・。越尾先生の「素晴らしさ」は不思議なことに会津高校を卒業して時が経てば経つほどそのことを感じる・・。

自分というもの、社会というものが少しずつ分かっていくのと同じ速さで・・歩調を合わせながら・・。

越尾先生は私が高校2年のとき小島先生との入れ替わりで赴任された。先生は大学時代、日本体育大学駅伝部のキャプテンとして、最終学年のときに箱根のアンカーを走り(1970年、第46回、日体大、第一期黄金時代〈5連覇〉の2連覇の年)見事、優勝を飾っている。

指導者としても会津女子高を全国高校駅伝出場(第1回大会)にまで導いている。また異色ではあるが、やり投げの小島裕子さん(会津女子高、現在は男女共学となり会津葵高校をでて筑波大へ、筑波大では日本選手権2位現在関東の高校で教員をされながら、競技を続けている。)を指導されている。

私は越尾先生がいなかったら、インターハイ入賞などできなかったと思う。

しかし、そのような先生だったにもかかわらず、私はよく先生に「反発」した・・。

よく高校時代は1000m5本という練習をよくやったものだが、インターハイで勝つことを考えると、タイムが14分10秒前後だったので、そのタイムを5で割って、少なくとも2分50秒ではやらないとダメだと私なりに勝手に考えていた・・。

しかし、先生は「2分55秒でいいよ・・」と5秒も遅いペース。単純に5をかけても14分35秒にしかならない・・。

「先生、こんなペースじゃ勝てないじゃないですか!遅いです!駅伝の強い高校はもっとすごい練習やっているはずです!・・それなのにどうして・・。速いペースでやらせてください!」と私は先生に食ってかかっていた・・。

中学時代に全国優勝している私は、それなりにプライドがあったのだ。

今、考えるといらないプライド、根拠のないプライドをもっていたとつくづく思うのだが・・。ただ、何かにすがらないとやっていけない自分がいた。

なにがかんでも中学の時ように全国で活躍したい。

駅伝の強い高校は集団でレベルの高い練習をしている。

そいつらに勝つにはそいつら同等の、もしくは

それ以上の練習、それ以上の努力、それ以上の精神力をもたないと勝てない・・。

「ひとり」「不利な環境」という意識が強かった私は、そのような自分と絶えず闘っていた・・。普通の先生だったら、私のような態度をとったものならひっぱたいているだろう。しかし越尾先生は違った・・。

「なぁ、敦之・・。長距離はだだ、頑張ればいいものじゃないんだよ・・。ゆとりというものが大切なんだ・・。おまえの走りをみると頑張っているということはよぉ~く分かるんだけど、何かにとりつかれているみたいでゆとりがないんだ・・。もっと余裕をもって・・決しておまえを悪いようにはしないから・・。ゆとりが大事だよ・・。」

他の生徒には「もっと頑張れ、苦しいとき、いかに頑張るかだよ」と指導されていたが、私が先生の練習に疑問をもって先生のところに行ったときは必ず「長距離はゆとりが大事」ということを指導された。ひねくれ者の私は心半分納得していなかったが、高校1年の挫折をあじわっていた分、半分だけこころで聞く耳をもてた・・。

「とりあえず越尾先生を信じてみよう・・」と。

高校2年のインターハイは鳥取であったが(鳥取にも実は縁がある・・そのはなしはまたあとで・・)タイム的にはギリギリ入賞できたらいいなくらいの実力であった。

しかし先生と相談しながらたてた練習メニュー(会津高校時代、私は先に自分がメニューをたて、あとで先生が手直しをするという形だった。先生は会津高校の生徒自らが自主的に活動する伝統を重んじてくださっていた)と先生のアドバイスをしっかり聞いて、私は、インターハイにむけてこなしていった。

「目標はインターハイ入賞 in とっとり!」と毎日懲りずに練習日誌に書いていた。

結果は14分17秒57の大幅自己新で5位・・!!

ラストまで3位争いができたので、実力以上のものがでて嬉しかった。

頑張るだけが強くなれることじゃないと・・・。

「ゆとり」をどこかにもつことの大切さを走ることを通して学ぶことができた。

違う自分が「発見」できた。

そんなところからくる嬉しさだったのかもしれない・・。

ただ、私は鳥取インターハイの時も先生に反発している・・ほんと懲りずに・・。しかし、その時先生は頑として先生の考えを譲らなかった・・。

それは、インターハイの総合開会式に出ることということだった・・。開会式の次の日から競技が始まる。私は1500mにも出場したので、開会式の次の日から競技があった。

インターハイといえば「夏」。暑さの厳しい時期だ。ほかの高校の生徒は次の日から競技のある人は開会式に出ないという話を耳にしていた。私も体力をできるだけ消耗しないようにと考えていたので先生に「開会式は出なくていいんですよね」と先生に聞いた。

そうしたら、「何を言っているんだ、敦之・・。お前はそう考えていても、鳥取の高校生たちはこの日のためにお前と同じく(開会式の)練習をしてきているんだよ。しっかり行進して、鳥取の高校生たちの演技をみてあげないといけないよ。しかもこのくらいの暑さに負けるようだったら、走れないよ・・先生はこのくらいの暑さには負けないような準備を敦之にさせてきたつもりだよ。開会式には出なさい!」

「ならぬことはならぬ」そんな感じだった。

親父の雰囲気と重なって少し怖かった。

高2のインターハイは会津から鳥取まで車で移動。およそ1日半をかけて。「電車使って行ったほうが早いべしたぁ(会津弁)。先生ぇほぉんと、ちゃんとかんがえてんのがなぁ・・。」・・ということもあって疑問を感じていたから、あの時は余計反発したのかもしれない・・。

でも、利にかなっていることだけをしていては、成長できないことを私の態度から的確に見抜いて、相手(支えてくれている人)があって自分がいるということ(うまく説明できないが・・)を教えてくださった・・。

越尾先生は、本当にすごいなと思えた。私は高2のインターハイ境に心を先生に開くことができた。

先生は他にもお世話になったひとには必ずお礼のてがみ、はがきでもいいから書きなさい。また、人のものは必ず一言断ってから借りなさいなど、「人として」の礼儀を教えて下さった。越尾先生は私にとってかけがえのない「恩師」だ。

二年の夏に実家に帰ったとき、私は、先生の家に招待されて先生と一緒に飲んだときに

「先生も・・。昔は短気でよく生徒のことをひっぱたいていたんだよ・・。だけどなぁ・・それじゃあいけないと思った。生徒が変わることを信じて、ひっぱたきたいところを辛抱することも大切なんだって・・。先生もこの歳になってやっとわかってきたんだぁ・・」

「あとなぁ、敦之に速いペースであんまりやらせなかったのは、伸びしろをつくって大学に進学させたかったからなんだぁ。おまえは高校で終わるような選手じゃないと思ってね・・。あとに楽しみが在ったほうがいいだろうと思ってね・・。でもお前にそこまでのこころの余裕がなかったから言わなかったんだぁ・・。」

先のことまで考えて指導なさっていた越尾先生には本当に頭が下がる・・。

高校卒業のときに先生が私に贈って下さったことば。

「志あらば・・道は拓ける・・」

志をもって生きて行きたい。

母校に行ったときは、後輩と共に練習で汗を流すことのほかに大学でいろいろ学んだことをふまえて後輩にアドバイスをした。

私も高校生のころ、教育実習などでこられた陸上部の先輩がアドバイスをしてくれた。また、先輩が一緒に練習してくれたことがものすごく嬉しかったので、ぜひ、自分もという気持ちになったのだ。

また駅伝で迷惑をかけた思いがあったので、何か自分ができることはないかなと思って、後輩とほんと短い時間ではあったが、何かを伝えようと努力した。

気持ちの支えになれたら・・と思った。

まるで、高校のときの「佐藤敦之」にアドバイスしているかのように・・・。

実家に帰った一週間はとても充実していた・・。私にとって最高のリフレッシュ・・。

最高の解散、 いや最高の合宿であった・・。

解散が終わると今度は長期の選抜合宿に入る。「北海道合宿」だ・・。部員は50人ほどいたが、北海道にいけるのは、わずか18人。残りは所沢に残って寮合宿と、涼しい北海道、酷暑の所沢では雲泥の差があった。しかも、大体18人の中から箱根を走る選手がでてくる。メンバー選考に一喜一憂する者もいた。

16日間の長期合宿。北海道に行く前までに私は、ベストの体重に戻り、“ランナー(学ぶひと)”としての引き締まった身体に戻っていた。

北海道合宿は前半は「常呂町」、後半は「深川市」で行われいた。

常呂町は中国電力に入社してからも毎年合宿している。遠藤さん、坂口さんは学生のころから毎年なのでもう十何年にもなる・・。

女満別空港から常呂町に到着する前に必ず立ち寄る場所があった。そこには慰霊碑が立っていた。遠藤さん、坂口さんの先輩の金井豊さん(早稲田からヱスビー食品へ、ロサンゼルス五輪に1万mに出場し入賞を果たしている)坂口さんと同期の谷口さん(同じく早稲田からヱスビーへ早大時代第60回箱根駅伝にて九区を走り早大の優勝に貢献した)が眠っている場所だ。

1990年、ソウルアジア大会むけて常呂で合宿していたが、その移動中の事故で・・・亡くなられた・・・。車での事故。遠藤さんはこのような悲劇が二度と起こらないようにするためにもという気持ちを学生に伝えるために連れてくるのだそうだ。だから早稲田の競走部は大会の移動でマネージャーが選手を乗せて移動することはない。二度と悲劇が起こらないためにも・・・。毎年お参りをして・・。

常呂町は網走市の隣に位置し、オホーツク海に面していて、冬には流氷がくる場所で有名だ。また、カーリングのまちとしても有名だ。町内体育施設にはカーリング場がある。さらに、ほたての養殖がさかんで、毎食新鮮なほたてを食べることができた。ほかにも、毛がに、北海シマエビ、さけなど普段は絶対食べられない豪華な海鮮類をたらふく食べることができた。また、陸の食材としては、じゃがいもやとうもろこし、メロン、ジンギスカンなどを満喫することができた。

「陸上やっててよかったぁ~!」とこの時ばかりはつくづく思う。うめぇ・・。たまんねぇ・・。分かるかなぁ・・この気持ち・・(笑)

民宿の方とは今でも連絡をとりあっている。中国電力に入ってからは、宿泊場所が違うが、合宿で常呂に行くと民宿の方の自宅に招待してくれてご馳走してくれる。また近くの喫茶店で名物「流氷ソーダ、アイスココア、自家製カレー」をおごってくださった。特に民宿のおばさんは大学1年のころから特に私にかわいがってくださった。まるで、わが子のように・・。

夏の北海道の魅力は涼しさもあるが、何といっても、広大な「北の大地」だ・・。本州ではまずみられない、一直線のまっすぐな道・・。

そこに辺り一面ひろがる「トウモロコシ畑」上を見渡せば、青々とした「どこまでも続く真っ青な空・・。」

そして「黄金色に輝く太陽」と、まるで異国にでも来たかのような、絵に書いたような風景。

本当に「北の大地」の魅力に圧倒されてしまうほどすばらしい。

私は走りながら北の大地を満喫して「カントリーロード」を口ずさむのが大好きだ!

「練習の虫」と化していた「佐藤敦之」は、強くなるためというよりはむしろ走ること自体を楽しむがごとく、むじゃきに走っていた。

「佐藤敦之」は何度となく遠藤さんにブレーキをかけられた。本人は走り足りないのに・・(涙)。

走れる喜び、嬉しさが何十倍という力を「練習の虫」与えていたのかもしれない。

それと「梅木越え」を目指して・・。

8月には1170キロ走りこんだ・・。マラソンランナーのトレーニング量に匹敵する練習量。

このころからマラソンというものをちょっとだけ意識していた・・。

9月には夏の走り込みの成果がでて全日本インカレ1万mで初めて29分を切る28分54秒64で7位に入賞した。

しかし、28分40秒台を狙っていたこと、「梅木越え」に必要なナンバーワンを獲ることができなかったことで私の中では惨敗だった。

三代さんの強さをあらためて知った・・。

全カレ初日に行われたので、次の日から応援だった。

応援になると一,二年は場所取りのため「インカレ名物開門ダッシュ」のポールポジションを確保する必要があったため、朝早くから並ばなければいけなかった・・。試合が終わった日は体が興奮していてなかなか寝付けなかった。次の日は4時半起床。

リュックに着替えを入れて12キロ先の駅まで一つ下の新井広憲と走っていったのを憶えている。「練習の虫」は、あいかわらず続いていた・・・。

9月の全日本インカレ後、いよいよ駅伝シーズンに入る。

「秋」・・。

しかし「惨敗」が、またしても

歯車を狂わせていった・・。

第5回 感謝

秋・・いよいよ駅伝シーズンに入る。秋になるとあっという間に時が過ぎていく感覚になる。

ひとは何かに没頭しているとき、時を忘れる。時を忘れるだけ、幻想に包み込まれていく。

二年の駅伝。私にとって「屈辱」以外の何ものでもなかった。出雲、全日本と惨敗。勝負になどまったくならなかった。日誌にも早稲田の順位が書かれていない。出雲6区アンカー区間4位。全日本8区アンカー区間6位とだけ。話しにならなかった。

一位の大学が走り去ってから、たすきを待つあいだのむなしさ。

駅伝は流れが大切とよく言われるが、よい流れとわるい流れの違いがこれほどまでなのか、と思った。走っているあいだ「どうしたワセダ。しっかりしろっ!」が続く。叱咤激励の意味をこめて檄を飛ばしてくれていると思うのだが。「おまえら(ワセダ)は弱い、エースが抜けたぶん」と言われている気がしてならなかった。ゴールする時も「今年のワセダはヤバイんじゃないか・・」皆、人前では口にはださないもののそう思っていたに違いない。

そのような逆風が吹く中、走らなければならなかった。

「俺は絶対あきらめない・・どんな状況でも走りぬくんだ」と言い聞かせながら走った。

「屈辱」を受けたとしても「逆境」にくじけるなと言い聞かせながら走った。しかし、惨敗・・。

特に全日本大学駅伝で藤田敦史さんに三分差つけられたことは「ちからの差」をまざまざとみせつけられた。

「いったい、何が違うんだよ・・。こんなにまで・・。」

本人が頑張って走ったと思っても、そこに結果がついてこない。結果がついてこないから評価されない。評価されないから自分のやっていることに疑問をもつ。疑問をもつから自分を信じることができなくなる。

信じることができなくなるから、心がばらばらになる・・。

出雲、全日本の惨敗によって、チームも私も、こころが地に付いてない、そんな感じだった。自分たちのやっていることに誇りがもてなかった。どこの道をすすんでよいのか分からなくなっていたのだ。相手の強さに圧倒され。

ただどんな状況下に置かれても、どんな結果だったとしてもレース後は必ず行おうと、こころに決めていたことがあった。

レース後かならず、

一礼することを・・。

いつごろから始めたかはよく憶えていないが、中学も高校もレース後は必ずおじぎをしていたと思う。当時は、どことなく周りがやっていて

「なんか、いいなぁ・・」と思ってレース後一礼をしていた。どの大会に行っても中学の時も、高校の時も誰かはしていたと思う。特に駅伝の強豪校は、しっかりやっていて「さすが、強いチームはそういうところまで違う。俺も見習ってしっかりやろう」と思った。

よいことはどんどん取り入れて吸収する。そして自分のものにする。これは陸上を始めた時からずっと変わっていない私のスタイル(型)だ。ひとがよいことをやっていれば素直に認めて自分もやればいい。それで成長できるのならこれほどおいしいものはないと私は思っている。

ただ大学にはいると誰もレース後一礼をしないのには疑問を感じた。確かに、勝ったら、喜びを体で表現して、周りを魅了させたい。カッコよく決めたい。と思うのは少なからず私の心の中にもあるし、走ることを志すもの誰もがそう思うことではなかろうか・・。

私は、一礼を続けたい。

たとえ引退して走ることをやめたとしても、その後の人生の中のどかで、さりげなく続けていきたい。

応援してくださる方々への感謝。

完走できた自分への感謝。

自分の歩んできた道に振り返って感謝。

支えてくださった方への感謝。

失敗に対して試練を与えてくださったことへの感謝。

走るチャンスを与えてくださったことへの感謝。

感謝は、よいときもわるいときも感謝できるのだ。本当は人生によいわるいなど存在しないと思う。お百姓さんは雨を「恵みの雨」と感謝する。晴れを「お天とさま」とありがたく思う。すべてに感謝する。ご飯を食べるときは手を合わせ「いただきます」をする。

命をいただいて、わたしたちは生きている。そのことに感謝する。

だから、わたしは、結果がどうあれ、走り終わったら一礼をしたい。言われたから・・やれと言われたから・・そういう次元ではしたくない。

こころから感謝のきもちをこめて「ありがとうございました」と一礼をしたい。

すばらしい日本の文化を私は伝えたい。感謝するひとたちが日本にたくさんいたから今の日本があると思うのだ。

今のひとたちの力ではない。

どんなに苦しくても感謝の気持ちを忘れずに生きていた先輩方(おじいちゃん、おばぁあちゃん)がいるから今の日本があると思う。

一礼に華やかさはないかもしれない。でも色褪せない。

何度も何度も繰り返し繰り返し感謝することで光り輝いていくものだと思う。若いうちは光り輝かないとしても、いつか必ず光り輝く。

そんな人生自動販売機のようにお金を入れたらジュースがでてくるような、努力したからはい成果がでました・・そんなものじゃない。

昔のひとは何に対しても手間と暇を惜しまずに努力してきた。自分の思い通りにならないことをしっているからものすごくいろんなものに対して感謝することができたのだと思う。

今のわたしたちはボタンひとつでこと足りてしまう、何でも生きることに不自由しない場所で生きているから、不足、不自由、苦労に直面しないから感謝の気持ちがでてこないのかもしれない。

「あってあたりまえ」「やってもらってあたりまえ」の気持ちが感謝の心を奪ってしまう。

だから、走ることでたとえできないことに直面してもそれはすばらしいことだと思う。なぜ、できないかを考えるチャンスがめぐってくるのだから。力の不足をいただくことができたのだから。

できない自分を知ることによって、できる自分により感謝することができるのだから。

わたしは会津で育った。会津は雪国だ。冬は雪が積もり、走る場所を確保するだけでも一苦労する。もちろん寒い・・。吹雪の日は走っていると鼻水が凍るほど寒いときがある。

「早く春がこないかなぁ・・思いっきり走れるのに」

ものすごく春を待ち望んだ・・。

春をじっと待つ気持ち。

雪がしんしんと降るなかで。

会津にひとは・・・

ただ黙って黙々と春を待つ。 冬の寒さにじっと耐え春を待つ 雪がコンコンと降るなかで

会津のひとは・・・

雪の厳しさに耐え春を待つ。春を待つ会津のひとの姿は美しい 

じっと冬の寒さ 雪の厳しさに耐えた

会津のひとは・・・

春を美しく感じることができる。春を待ちわびたかのように 

心から喜ぶ 心から感謝する

春のありがたさを知っているから 会津の冬を知っているから 

じっと耐えること じっと待つことを知っているから

会津の桜の美しさは、こころのうつくしさだ

走ることで伝えたい。

走ることで訴えたい。

  人はなぜ走るのかを・・・。

第6回 屈辱は己を変える最大の好機(チャンス)

大学2年の箱根が終わったあと、練習日誌の冒頭にそう私は記した。

「自信という言葉などなくして欲しい。」 ・・・自信という言葉がやけに遠く感じた。

早稲田10位でシード落ち。受け止めたくない現実を真正面から受け止めるしかほかになかった。私自身、2年の箱根は全日本大学駅伝後の故障が原因でぎりぎり間に合わせた感じで、ベストとはほど遠い走りだった。4区(20・9k)を走り63分46秒で区間4位。そのときの区間賞が藤田敦史さんで3分という大差をつけられた。万全ではなかったにしても私とってこの結果は「屈辱」の何物でもなかった。ちからのなさを痛感した。

「梅木越え」など夢物語にしかすぎなかった。理想と現実のギャップが知らぬ間についていたのかもしれない。

「何かを変えなければ、変わらない」

東京大手町のゴールから、空を見上げながらそうつぶやいた。

4年生の先輩たちは涙にくれていたが、私には涙はなかった。なぜ泣けないのだろうとも思った。そこまでチームのためにという気持ちがなかったからなのだろうか?

いろいろ考えたが、そのとき答えはでなかった。閉会式が終わったあと、私は先輩に自分の荷物を押し付けて、大手町から、皇居、赤坂御所を通って、原宿の部室まで走っていった。

「変えるしかない。自分を。それしか方法はない・・・」

おそらく「佐藤敦之」には自信などはなかったであろう・・・しかし、彼には断固たる「決意」がこのとき芽生えようとしていた。

「屈辱は己を変える最大の好機」

やるしかなかった。

手始めに丸坊主頭にした。今時とは思ったが、逃げられないようにするため。自分の決めたことから逃げないためにも形として。しかし、次の日からインフルエンザにかかってダウン。解散中で誰もいない寮で寝込んでいた私にご飯を遠藤さんがもってきてくださった。私の頭をみて「どうしたんだ?その頭・・?」にやにやしながら嬉しそうに言っていたのを覚えている。遠藤さんは口にはださないが嬉しいときは顔に嬉しさがでてしまう。

大学3年の時、びわ湖を走ったあとも、「まだまだだな」と言いながらも顔は嬉しそうだった。

大学2年というと年齢は二十歳になる。二十歳といえば成人式があり、皆それぞれ着飾って成人式に出る。中学、高校の地元の友人と再会などをして、大人として、決意を新たにする。これが日本の風潮ではなかろうか。しかし、私たちの学年は成人式にでるため地元に帰ることを許されなかった。理由はシード落ちが一番の原因だったのだろう。あとで地元の友達が「なんで帰ってこなかったんだよ。楽しみにしていたのに」と電話してきた。頭を丸めていたから、かっこ悪すぎてあまり友達に会いたくないというのが本音だったのだが・・・。

成人式の代わりといっては何だが、遠藤さんが私たちの学年を遠藤家に招待してくださって、ささやかな成人式が開かれた。遠藤さんの奥さん美都里さんが作ってくださった料理を食べながら、一人一人、二十歳としての決意を述べて。それなりに楽しい雰囲気だった。

しかし、わたしが決意を述べたあと遠藤さんから「やっぱり今回シードから落ちたのはおまえ(敦之)が二区を走らなかったのが一番大きいな」

まさか、和やかな雰囲気の場で言われると思ってもいなかったので、血の気がすぅとひいいてしまい、一瞬どうしてよいか分からなくなってしまった。やはり、現実と向き合うしか方法はほかにはないと改めて感じた日だった。ほろ酔いだったが一気に酔いが醒めてしまった。

「屈辱は己を変える最大の好機」

何度も何度も心の中でつぶやいて、苦しさをかき消そうとしていた。

しかし、想いとは裏腹に、気持ちと身体がまったくかみ合っていなかった。実は大学2年の冬に私はびわ湖毎日マラソンに出場しようと思っていた。早いうちにマラソンを経験しようと思っていたので・・・。初マラソンなので、2時間15分くらいで走れれば、マラソンの苦しさというものが分かるかなと思って。

実質、練習で40kを余裕をもって2時間14分くらいで走れたので、いけるかな、と思っていた。しかし、あえなく故障。またしても故障で走れなくなってしまった。自分ではそんなにトレーニングしていないと思っても、やはり気持ちが前に行き過ぎていて、身体に見合ったトレーニングをしなかったのが原因だと今は思う。理想と現実のギャップに。

「またか・・・」

また、だめになってしまうのかと頭がよぎった。

「ダメ人間に・・・」

しかし、もうここでめげてしまったら本当に早稲田がだめになってしまうと思った。

つぶれることが許されない。自分自身に負けたらさよなら。

箱根の予選会で落ちたら二度と這い上がれなくなってしまうチームになってしまう。もう下級生じゃない、自分がチームを引っ張っていくんだ。新たなものを俺が切り開いていけばいいんだ。

決して天才肌ではない。

だけど、人が考えられないような努力と、人のよいところを見抜いて、自分のものにしていく研究心、探究心は誰にも負けない。

そう思って、何度も何度も弱い自分を振り払おうとした。

「決意」

この言葉をいちばん強固なものにしてくださったのは、遠藤さんの言葉だった。忘れもしない。2月23日のミーティング。チームの大半が故障してしまって、チーム状況としては、目の前に超えなければならないことがたくさんあったにもかかわらず、最悪だった。そこでふだん感情的にならない遠藤さんもこのときは怒りをあらわにして私たちを叱った。

「ほんと、おまえらは弱いよ。ちょっと走っただけで、すぐにここが痛い、こっちが痛いって。足を引きずってでも走るという気迫はないのかよ。怪我をしたにもかかわらず、好きなもの食べやがって、ブクブク太って。俺が選手のころは体重を気にして一日最低4回は体重計にのってウエイトコントロールをしていたよ。君らは弱いのにそれすらしない。それに君らの故障が多いのは歩かないことだ。俺も瀬古さんも選手のころはよく歩いたよ。

瀬古さんなんか重く歩きづらい靴をはいたうえに手に石をもって東京の街中を必死になって歩いていたよ。強いひとがそういうことをしているんだ。

君らはどうだよ。すぐに楽なほう楽なほうに逃げてさ。挙句の果てにできないのは他人のせいにして。君らにいちばん足りないのは地道な努力だ。小さな子供だってうがい手洗いしなさいしなさいって言えばやるよ。

果たして君らはやっていたのかよ。家の娘たちだってお前らが家に食事に来るとき風邪をうつしちゃいけないと思って何も言わなくてもうがい手あらいをするよ。君らにはその心のかけらもみえやしない。ただ、ワセダブランドにぶらさがっているだけじゃないの。特に推薦で入った連中は特に。ワセダに入ってバンザイって顔に書いてあるよ。そんなヤツはさっさとやめちまえよ。

ぶらさがるんじゃなくて創るんだよ。血のにじむような努力で。自分たちでつかみにいかないといけないんだ。はっきりいってこのままいけばこのチームがダメになるのは目に見えている。やるのは君らだ。君らが変わらなければ何も変わらない。

君らのたすきには心がつながっていないんだ。前の走者のこころを受け継いで走ってやるという信念がまるでない。だから途切れ途切れの単なるたすきリレーになってしまうんだ。つながる・・・流れるような襷のつなぎ方をしないとだめだ。よくこのことを学生たちで考えてほしい。以上。」

ふだん遠藤さんの話を聞くときは常に遠藤さんの目をみて聞いていたがこのときばかりは遠藤さんの目をみて話を聞くことができなかった。全体に言っていたことだったがまるで私ひとりにいっているようにしか思えてならなかった。うつむき加減で、体を震わせながら聞いていた。

「何としても故障を減らさないと、やっぱり歩くしかない。そして変えなくてはいけない。徹底的に・・・」

腹をくくってやると昔からよく言われるがまさにその心境だった。

まずは歩くという基本から。そして、もうひとつ私は新たなものに挑戦しようとしていた。

この人がいなかったら私は変われなかったと思う。

「屈辱は己を変える最大の好機」

第7回 determination(決意)

大学2年の箱根シード落ち。そのことがきっかけとなって、私は日常生活の中に歩きを取り入れるようになった。心の根底に「絶対に故障しない!」という意識が強かったからかもしれない。

やはり・・走れないことはランナーにとって致命的だ。

私の場合、走りすぎての故障が多かった。いや、すべてそうだった。強くなりたいがために欲張りすぎて。そのときの自分に見合ったトレーニングができなかったことが原因だと今は思う。それなら、練習量を落とせばよいという考え方が大方の意見であろう。

しかし、少ない練習で強くなれるという自信が私にはなかった。その自信のなさを人より多い練習でかき消す。そんなだった。また将来マラソンを走りたいと思っていたので、即効性はないけれど、あとになって活きてくる、そう。「成果は、忘れたころにやってくる」

そのようなもので継続できるものを自分のなかに取り入れていきたかった。

故障せずに、量を増やしていきスタミナを蓄積していく方法。やはり、遠藤さんが指摘された「歩く」ということにいきついた。これほどシンプルなトレーニングは他にはないと思う。

歩いて故障しました・・という話は聞いたことがない。歩くことは時間さえ作れば、いつでもどこでもできる。買い物に行くときでも、食事に行くときでも、治療に行くときでさえも。いつでもできる。また、きついトレーニングのあと、筋肉が疲労していて、クーリングダウンが無理かなというときも、歩くことによってクリーングダウンの代わりにもなり、疲労回復につながる。

さらに歩くということは、エネルギーを消費する。消費するということはウエイトコントロールにも役立つのだ。私自身太りやすい体質あったので体重を増やさないという意味合いもこめて歩いた・・。時には、歩いた分、好きな食べ物を食べてよいというルールを決めてよく歩いた。

とりあえず、風呂に入って夕飯を済ませたあと、スーパーで安売りのもの(閉店間際のお惣菜は安い!半額もあるよ!)を買いによく歩いた。甘いデザートかビールを買って飲んでほろ酔い状態で歩いて寮に帰る。それが楽しみになった。

強化しながら楽しむ。そのようなことが好きだった。また、日曜日の夜と月曜は寮の食事がなかった。食事のない日は、最寄りの駅前に、競走部行き付けの店、ひろしま風のお好み焼き屋「みなみ」があった。そこによくあるいて食べに行ったものだ。最寄りの駅といっても4キロある。そこでたらふく食べるのが楽しみだった。よくその店のおじさん、おばさんに帰るとき「車で寮まで送っていってあげようか?」と言われた。でも私は「おじさん、おばさんの気持ちは嬉しいんですけど、やっぱり僕は強くなりたいんです。すみません・・。」と言ってまた寮に帰るという感じだった。「意志の強い子だね。」とおじさんとおばさんはうれしそうな顔をしていつも私を見送ってくださった。やらされてしたことではなく、自らの意志で始めたことだったので楽しかった。

どういうふうに自分が変わっていくのかがものすごく楽しみでもあった。

ちょっとだけ自分に期待しながら・・。

それでも歩き始めたころは面倒くさがり屋の自分のこころとよく対決した。

自転車やバスで行けば、短時間でいける。歩くことは時間がかかるものだ。どちらかというと私の性格は、「いかにきついことを楽をしてやるか」なので、最初のころは歩いたあとだるくてしかたがなかった。「何か俺って・・時代に逆行していることをしている」

最初のころはそういう風に思っていた・・。でも、遠藤さんも瀬古さんたちもワセダが強かったころの選手はあたりまえのようにやっていたことだったので、「歩くことが、マラソンランナーとして当たり前と思えるまでやってみよう!」と思って歩いた。単に走る以外でということであったら、自転車や水泳という選択肢もあったと思う。

しかし、私は、高校時代、故障したとき、心肺機能を落とさないようにと自転車や水泳をひたすらおこなっていた。その結果、心肺機能はある程度維持することができたものの、走り方が腰の落ちたフォームになってしまい、頑張っているのに速く走れないような感じになってしまったことがあった。

自転車の動きと走る動き、筋肉の使い方が異なるからだ。自転車こぎときは、ふとももの前面の筋肉(大腿四頭筋)をよく使う。自転車競技の選手は前ももの筋肉が非常に発達している。同じ筋肉の発達をしている競技がスピードスケート・・。どちらも上体を前かがみに倒し、膝を曲げた状態で脚を動かす。腰の位置も低い状態になる。だから、ランナーが故障で自転車をやりすぎると腰の落ちたフォームでしかも前面の筋肉(膝の周辺の短関節筋)を使った走りになってしまう。短時間の出力形態の競技ならそれでよいのかもしれないが、長時間行う競技においては筋肉が疲労しすぎてしまいもたないのだ。長距離走者の走りとはいかに筋肉を疲労させないで、最小限のエネルギーで一定のスピードを持続するのが目的のため。やはり自転車トレーニングは目的がずれてしまう。トレーニングの特異性が影響しているのだ。

水泳はというと、トレーニングの強度で考えると自転車と同じく走ることよりトレーニング強度が高いと思う。より多くの筋肉を使用するためだ。だから心肺機能の強化や、非常に上体の筋肉を使用してトレーニングするため、ランナーのようなあまり上体の筋力がないものにとってはある意味、上体強化しながら心肺機能を発達させるというメリットもある。実際私はよく上体の筋肉が発達していると言われるが、幼稚園から小学校まで水泳をしていたこと、また故障中に水泳を取り入れていたことが影響しているのかもしれない。ただし、水泳の動きは重力に逆らう運動ではない。水圧に逆らうトレーニングだ。上体は絶えず水圧の抵抗に対抗させて泳ぐので発達する。しかし下半身はというと重力に逆らう必要がないのでキックはするもののあまり陸上でいるような負荷がかかってこない・・。いわば寝てトレーニングしている状態となる。風邪をひいて3日ほど寝込んで走らなかったときに、風邪が治って走り始めると全くいつものように走れないことを経験したことがある人は少なくないだろう。極端なはなしではあるが、重力に逆らうということを続けていないと下半身はすぐに衰えてしまうのだ。

その点、歩くということは走ることより負荷が低いものの、限りなく、走る動きに近い。長時間運動ができる。長時間身体を動かす、重力に逆らうといことは、下半身もきついがじつは上体もきつい。学校の朝礼などで長時間立っているときついなと思った人は少なくないだろう。姿勢を保持することはものすごく疲れる。しかし長距離走者は箱根でも最低1時間、マラソンになると最低2時間、同じ姿勢を保持していることになる。だから姿勢保持という観点でも歩くということは有効なのだ。自転車で気をぬいて運転すれば、猫背で、脚はがに股。走る理想のフォームとはかけ離れた動きをしてしまう。

高校時代まで活躍していた選手が大学に入ってから伸びなくなる原因のひとつとして、授業をさぼって、朝練がおわってからお昼まで寝ているか、ゲームをやってぜんぜんからだを動かさない。そして午後になって練習があるからやっと身体を動かし始める。こんな生活形態をとっていたら身体がなまってしまうのは目にみえている。身体だけならまだしも精神までが堕落してしまう。

実業団の選手は合宿以外のときは会社にいって働く。それなりに頭と身体を動かす。しかも合宿になると1日3回練習などで1日中走りっぱなし。忙しい生活をしている選手のほうが故障しないのだ。長距離選手は特に・・。観察しているとそう思う・・。正しいと断言はできないが、わたしはそう信じている。また歩くことはフォームをものすごく意識しやすくフォーム訂正にも役に立つ。

水泳も自転車も決して悪いものではない・・何もしないよりははるかによい。ただ、走るという全体的な部分から物事をとらえると、水泳、自転車のリハビリトレーニングは心肺機能の維持という部分的なものに限定されるので、部分的なものに執着してしまうと、全体が見えなくなってしまう。特に長距離は全体(トータル)でものごとを判断していくことが非常に大切になってくる。なかなか分けて考えるとうまくいかない競技だ。

私は、歩き方をものすごく意識した。胸を張るような状態で骨盤を前傾させ、ハムストリングス(大腿二頭筋、ももの裏側をさす)を使って、脚の返しを速くして歩く。また音をたてないように静かに歩く。

これらのことを教えてくださったのは、短距離の一つうえの先輩、新田幸一(しんでんこういち)さんだ。新田さんがいなかったら、今の私はなかったと思っている。そのくらい私が自分を変えようとしている姿勢に力に貸してくださったのは新田さん以外にはいなかったと思う。

新田さんは、市立船橋高校時代、鳥取インターハイ200mで優勝を飾っている。しかし、その後、椎間板ヘルニアを患い、二度の腰の手術をされている。ヘルニアの中でも重度のヘルニア。普通の並みの選手であったなら、とっくに競技人生を諦めているであろう。しかし、新田さんはなんとか選手復帰しようと努力を続けた。どんなに辛くても人前ではけっして弱音を吐かず、明るく前向きに生きているようにみえた。

人の何倍もの努力の結果、当時初の4×100mリレー単独チーム38秒台となる学生新の早稲田のメンバーとして走った。

私がちょうど大学2年の冬に故障をしていたとき、手術後ということでリハビリに励んでいた・・。毎日競走部の倉庫でトレーニングをされていたが、今までにみたことのないトレーニングばかりだった。ふつう、短距離というと、重いバーベルをかついでガツガツやるというイメージが強かったが、新田さんが手にしていたものはわずか1キログラムのダンベル・・。それを何度も何度も同じ動きを繰り返していた・・。スクワットのしても膝を曲げたときに膝が前方にでないスクワット。初めてみたときは不思議だった。また、シューズにしても短距離というと分厚いアップシューズを履いているイメージがするが、履いていたのは、なんとマラソンシューズであった。

当時の私は、底の薄い靴は、足に負担がかかって故障の原因になると考えていたので、より負荷のかかる短距離選手がなんで底の薄いマラソンを履くのか疑問に思った。新田さんのトレーニングは、新田さん自身が鳥取のスポーツジム「ワールドウイング」に何度も足を運び、そこで学んだことをもとにトレーニングされていた。「ワールドウイング」には陸上100mアジア記録保持者の伊東浩二さんや、メジャーで活躍しているイチロー、マラソンの有森裕子さんなど有名スポーツ選手までが足を運んでいる有名なジムだ。

「初動負荷理論」というと難しく聞こえるが、ワールドウイングの小山裕史先生が、動きという観点から、それぞれのスポーツ種目に見合った動き方をアドバイスしてくれる。始めてそのジムをおとずれた人の多くが「目からうろこがおちる」そんな感覚に陥ってしまう。私も大学3年の冬にワールドウイングを訪れた。そのはなしはまたあとで。

新田さんは私の走りをみていつもこう言っていた。

「あっくんの走りって、何かおもりをしょって走っている感じなんだよね。重いだけならいいけど、走るのが頑張っちゃってって、人生までしょってはしっている感じでおもいんだよなぁ~。疲れるだろうなぁその走り。かくかくしていてぎこちないよねぇ~。なめらかさがない。あっくん走ると足の前ももの筋肉がものすごく張るだろ。疲れてくる後半になると特に。あっくんの故障の原因はまず、その走り方と、もうひとつ・・。ちょっと座ってみ・・。ここの筋肉とここの筋肉が固まってしまっていて機能していないのが原因なんだよ・・。なっ、筋肉を押されるとすごくいたいだろ・・。この固まった筋肉を使える筋肉、伸びる筋肉に戻してあげること、そして、筋肉が硬直しなような動き方をみにつけるんだよ・・。」

ちょっと私の走りと筋肉を触っただけでこれだけのことを新田さんは指摘してくださった。「動き」というものがどれだけ奥が深いか・・ものすごく痛感した・・。

と、同時に「新田さんから多くのことを学びとれば必ず自分を変えることができる」

前方の視界がまったくの暗闇であったのがひとつの「光」が自分の進むべき道を照らし出してくれた気がした。

「あっくん・・それと、あっくん猫背・・。猫背じゃ速く走れないよ・・。下半身に力がうまく伝わらない・・。椅子に座って立ち上がるとき猫背だと下半身にちからが加わらないから膝を必要以上に前に出して前もも(大腿四頭筋)を使って立とうとするの・・。そうすると膝にが緊張してまた引っ張られて、膝にものすごく負担がかかるの・・。椅子の立ち上がる動作って、走っているときの着地したときと同じ動きじゃん・・。あとさ、たとえば剣道の選手が猫背だったら面をうつとき一度上体を起こして打つようになるから動作が遅くなるんよ・・。なんで上体を起こすかというと猫背だと腕があがらないの・・。解剖学的にいうとね・・。猫背は腕のふりも小さくなるんよ・・。腕が触れないから、腕を抱え込んで力まかせにふってしまうの・・。あっくん、いま俺が言ったこと思い当たるだろう・・。あと猫背で酸素を吸ってごらん・・。酸素が入ってこないだろ・・。猫背のひとは酸欠になりやすいんだよ・・。長距離選手で酸欠になったら致命的じゃない・・。あっくん・・よくそんなんで走ってたね・・。俺は、あっくんがそのようなところ変えていったらものすごいランナーになるとおもうんだけどなぁ・・。まぁ動きが変わったらの話だけど・・。すぐには変わらないよ。動作改善には、ものすごく時間と労力がかかる。なんせ、20年してきた動作を変えていくんだからね・・。

本当に変えてやるという意識、デタミネーションdetermination(決意)が必要なんだ。おまえにそれができるか。できるんだったら俺は敦之にとことん教えてやるよ・・。同じ志をもって頑張ろう・・。」

新田さんにはほんと動きのあらゆることを教えていただいた。まず、動きができないときの原因は筋肉、股関節の硬さから生じているのでっ徹底的に筋肉をほぐし、使える筋肉レベルまでに戻してあげること。そして、筋肉を疲労させることなく、かつ筋肉の力を最大限に無意識に使える動きをマスターすること。そこまで到達するには強い決意と時間が必要だということを。

動きだけじゃなっかった。

新田さんは動き作りを通して「強くなるためのこころの道筋」を教えてくださったのだ。

「はじめに動作ありき、よいものをつくるには時間がかかる。しかし壊れるのはい一瞬。」

新田さんは競走部の先輩という立場をこえて、私のコーチであり、また、同じ「変えてやる」という志をもった

「同志・・」であったのかもしれない。新田さんほんとうにありがとうございました。

大学2年の3月おわりまで故障していて満足に走ることができなかったが、走れなくても、歩いたり新田さんに教わったことを徹底的に行ったこともあって、わずか1ヶ月の走るトレーニングで大学3年関東インカレは、4位ではあったが28分53秒の自己新をだすことができた。ちなみに新田さんがリレーで学生新で走ったのもそのときの関東インカレ。ともに喜びを分かち合った。

「何かが変わってきている」そのようなことを二人は体験できたからであろう。私自身猫背がだいぶなくなり、うらもものハムストリングの筋肉が自然と浮き出るような体型に少しではあったが変わっていった。

「これならやれる気がする。」

自分のこころに希望のひかりがさしていた。

「ぜったい俺はまけない・・やってやる」

いちだんと目がギラギラしてきた。

第8回 意識が人を動かす

私に動きの大切さを教えてくれた新田幸一さんは,いま,ムーブメントコーチと言えばよいだろうか?

スポーツ選手の動作改善のコーチとして,現在東京にて指導に当たっている。新たな人生への挑戦。陸上競技選手以外にもJリーガー,相撲などさまざまなスポーツ選手の動作改善のちからになっているのだ。マンツーマンでの指導・・。選手の動きを逐一チェックし,その選手,スポーツ種目に合った動作を提案してくれる。普通トレーニングは筋力トレーニングと動き作りを分けてトレーニングする傾向があるが,新田さんのトレーニングは動作から入った筋力トレーニング,より筋力を最大限に発揮するための動き作りといった形で「トータルソリューショントレーニング(技術と技術の統合)」を目指している。新しいコーチングスタイルを模索している。選手のコンサルティング,アドバイザー的な部分も含んでいるのだ。さらに新田さんは,「Pradaime Shifter(時代変換者)」を目指している。今までの価値観を覆し,より真実に近づきたい。そういう意味が込められているのだ。新田さんには,本当に頑張ってもらいたい。応援したい。

私は現状に満足してしまって,過去ばかりを振り返り,前に進もうとしない人は大嫌いだ。逆に新田さんのような未知なるものに,失敗を恐れず挑戦する人が大好きだ。私は新田さんと同じ志をもって前に進んでいきたい。

(新田さんについて詳しく知りたい方は http://www.geocities.jp/rx7881/へ)

また,「歩くこと」の効果についてだが,クリーングダウンでの効用がもうひとつある。より腰高のフォームで動くことができるのだ。きついトレーニングをしたあと疲労困憊で動くのがやっとというときのダウンのフォームはゆっくり走るためか,腰が落ち,膝が曲がった状態で着地するような動きになりがちである。人間にはもともと「自然治癒力」が備わっている。よい動きをすれば必ず回復する機能が、人間には備わっているのだ。ダウンは低い負荷のトレーニングをすることで血流をよくし,体に溜まった疲労物質を回収していく。また筋収縮に最適な温度を越えてしまっている状態を軽い運動でもとの温度に戻す意味も込められている。それらによって疲労物質である「乳酸」の除去スピードを早めることができ、疲労回復を促すのだ。

しかし,腰の落ちたフォームは逆に筋肉に負担をかけてしまう。すべての筋肉にではないのだが,一部分の筋肉に負担をかけてしまう。わざと腰の落ちたフォームで走ってみれば一番分かりやすいと思う。腰の落ちたフォームで走ると足の前側の筋肉,特に膝に近い筋肉(内側広筋)に負担がかかってしまう。長距離走者で動きがスムーズに行われているランナーは比較的足が細い。それは動きの中でブレーキがかからず,筋肉の負担が小さいため抵抗による筋肉の発達がないためだ。

筋肉の発達には、激しいトレーニングによって筋肉を破壊し,修復することによってより筋繊維が太くなる・・といった現象によって起きているのだ。疲労しきっている状態のとき、腰のおちたフォームで走ってしまうと部分的な筋肉にかかり、アウトバーン(焼ききれた)状態になってしまい故障の原因にもなりかねない。筋肉が張る状態とは筋肉にうまく血液が流れない状態にもなる。

血液は、酸素を運ぶので、血液の流れが悪いということは、酸欠状態、つまり筋肉が無酸素状態になっているのだ。人間・・無酸素状態では短時間しか運動できない・・。腰の落ちたようなフォームで走っているランナーは極端に言うと無酸素で走っていることになる。ランニングが有酸素トレーニングと提唱されているのに。

特に日本人ランナーはきつくなると腰が落ちてしまうランナーが多い、そこでも頑張ってしまうから後半は無酸素状態になってしまい、ゴールのときは立っているのもやっとという感じで、地面に倒れたりする・・(それなりに感動はよぶけれど)。

一方ケニアやエチオピアなど選手は非常に腰高の効率のよい走り方をしているため、ラストスパート以外は有酸素トレーニングを持続できる。だから、ゴール後もきつさがあまり残らずそのままゆっくり腰高のフォームで走り続けるから疲労がぬけてしまう。ウイニングランとは非常に理にかなっているのだ・・。(われわれそのようなランナーと勝負しなければいけないのだ。)

だから、ダウンのときはリラックスしながらもフォームに気を配る必要がある。頑張った時、無理した時のフォームは崩れている。その崩れた動きを元に戻すためにも動きを意識しなくてはならないのだ。なのでダウンで動きを疲れすぎたときは歩きで意識するとよいのだ。負荷が低いので、動きを意識する余裕が、走るよりかはある。腰高を作りやすい。学生時代はしっかりトレーニングができてなかったためか、ポイントで追い込んだとき、ダウンまで意識する余裕が疲れすぎてなかった。

そんな時は夜食事のあと買い物に行くついでに腰高のフォームで歩き、動きの訂正、疲労回復にこころがけたものだ。もちろん、いまも調子の悪いときは実施している。

また、学生時代、治療で東京に行ったときに東京の街を歩きながら感じたことだが、やはり、「ビジネスマン」と思えるようなビシっとしているひとは顔つきがキリっとしているのはもちろんだが、歩き方がとてもきれいで何より速い。時間に追われていることも関係しているだろうが、さっそうと歩く。

決してきれいに歩こうとなど考えていないだろう。ただ、彼らは目的意識が非常に高い連中だ。高いポテンシャルが無意識に歩きに現れているに違いない。一度、そのようなひとの後ろをずっとあとを追って歩いたことがある(ストーカーじゃないよ)。そのひとがコンビニに入って食べ物を買ったがやはり身体のことを考えての食べ物を買っていた。これらのことから言えることは「意識がそのひとの身体をつき動かすということ」だ。

さらに歩くことをもっと突き詰めようと思って、モデルのひとの歩き方を研究したことがある。確かにモデルのひとはスタイルがいい。スタイルがよいから歩き方がきれいにみえるという見方もできるが、モデルの人たちは絶えず、歩きかたや姿勢、食べ物に気を配って生活する。指先にまで神経を研ぎ澄まして歩く。そこまで気を配って努力しているから、凡人よりはるかに美しくみえるのだと私は考える。街でモデルの人が歩いていてじっとみながら歩いていたら自分の目の前に電柱があるのに気がつかず、もろに顔面からぶつかってめがねを壊してしまったこともあったが・・。それだけ観察することに集中していた。(繰り返しますが・・。ストーカーではありません〔笑〕)

だいぶ前おきが長くなってしまったが。

大学3年のときよく私が感じたことは、自分が上級生になったということだった。ちょうど学生生活後半に入る。大学や部の中のこともほとんど把握できた状態になる。

1年後には進路を決めなくてはならない。学生であるということよりも将来どうするのか・・・を考え始める学年だ。私自身、入学当初から二つの選択肢を考えていた。

ひとつは体育教師として故郷に帰ること・・。もうひとつは言うまでもない・・。ランナーを続け、走りで飯を食べていく・・。このふたつだった。

私は、3年になった時点でひとつに選択肢を絞っていた。「走り続けて、飯をたべていく・・。」この1点に絞った。ただし、将来、競技をやめて指導者になりたい夢があるので、教員免許は取得したが。このふたつ以外にどこかの会社に入りたいなど一切考えていなかったから、ある意味、一直線な気持ちだったと今は思う。

上級生になって私がいちばん変わったことは意識だったと思う。チームを引っ張ってチームを強くしていくという意識が芽生えた。引っ張るときは口で後輩にあぁせいこうせいというのではなく走りや、日ごろの行動、態度で後輩を引っ張っていきたかった。後輩が私をみて何かを感じとり行動にうつす。そういう先輩になりたかった。

一度ヱスビーの部室に連れていってもらったことがあったが、食堂の壁に中村先生の記事が貼ってあった。

「人間、思っただけであったり、口で言っただけで動かなかったら、何にもならない。考えたこと、目標を決めて実践したときこそ力になるのだ。まず、勇気をもって行動にうつすことが何より大切。」

その記事は今でも鮮明に憶えている。

行動にうつす。

それが、私のチームに対してできることだと考えた。また、2年の箱根が終わったあとから遠藤さんの提案でミーティングがあったが、その場では、チームを少しでもよくしようと思って、自分がよいと思ったことはみんなに提案したり、先輩に生意気だと言われること覚悟で四年生の先輩たちにガンガン「四年は口先だけで意識が低い!行動がともなっていない!」それらのたぐいのことを言い続けた。何としても早稲田をよくしたかった。みんなが言えないようことは率先していった。言ったことは必ず守って行動にうつす。そんな「佐藤敦之」だった。

時にはミーティング後、先輩に呼ばれて「余計なこと言うな!」叱られたりしたこともあったが、それでも先輩にいろいろ言い続けた。

「早稲田を強くしたい・・。」ただそれだけだったのだ。思っていたのは・・。ほんとに・・。

後輩からみると私は「怖い存在」だったらしい。自分ではそんな気はなかったのだが。ただ、意識の低い後輩をみたら、「おまえら帰れ!」と怒鳴ったりしたこともあった。そのくらい私は血走っていた。早稲田をこれ以上悪くしたくなかった。

それだけだった・・。

遠藤さんも私には高い要求を求めていた。「実業団と対等に闘える力をつけろ、最初から突っ込んでいけるスピードをつけろ。マラソンも走りきれるスタミナをつけろ。そして、エースとして絶対つぶれない精神力を養え!」と求めることが多かった。箱根の予選会前、箱根前以外は私だけほとんど別メニュー、同じくやったとしても、プラスアルファーを課せられた。試合なども札幌国際ハーフなど実業団の出場する試合に参加などした。でも決して苦ではなかった。

「俺はもっと高いところを目指すんだ。」

そのような意識が芽生えていたので。そして、俺がくじけたら、走れなかったらこのチーム早稲田が終わる。そのような危機感をものすごく感じていた。遠藤さんは私だけに要求してくる時もあったので、孤独感に陥ることもあった。何か高校のときの心境に似ていたので少し悲しかった。

だが、ひとつ下の原田正彦(現ヱスビー食品)がちからをつけ、またものすごく早稲田を強くしようという想いが強かったので、ものすごく助けられた。

「ひとりじゃないんだ」という気持ちになることができてすごく嬉しかった。チーム全体が何とかしようという気持ちになってチームがひとつになっていくことも分かった。

これが駅伝なのかな・・。

高校の時には味わうことのできなかった駅伝のすばらしさに巡り会えたそんな気がした。

箱根予選会は3位で通過。個人としては59分53秒で6位。予選会を通れたことは、ほっとしたが、これだけ突き詰めてやっているのにこれくらいしか走れないのか、悔しくて仕方がなかった。59分20秒台を狙っていた。意識は以前よりは高くなったが、まだ力が伴っていなかった。

本戦は予選会が3位だったにもかかわらず、すごく戦える雰囲気になっていた。やはり雰囲気がよいときは好結果をもたらす。キャプテンの前田さんが走ることができなくても一生懸命チームをまとめていった結果だったと思う。前田さんにはよく叱られた。時にはこのやろうと内心思ったこともあったが、やはり前田さんがチームをまてめてくれていたから、私がエースとしての役目に集中することができたのだと思う。前田さんにこころから感謝したい。ありがとうございました。

3年の箱根は6位でシードを取り戻した。みんな嬉しそうだった。個人としてはエース区間2区を走り69分4秒の区間4位またしても「梅木超え」ができなく、しかもなんでこれくらいでしか走れないの・・・。

そんな心境に陥った。また、大手町で優勝チームの駒沢がゴールテープを切って優勝したとき、大手町の空をみあげてふと思ってしまった。

「俺たちはシード獲ることで喜んでいる・・。優勝とシード権では意識のレベルが違いすぎる・・。ましてや敗れた2位の順大は悔し涙にあけくれている・・。一年前、敗れた駒沢だった藤田敦史さんも個人では4区区間新で走ったものの優勝できなかったことで悔し涙にくれていた・・。本当に箱根で勝ちたいという意識をチームに植え付けないととてもじゃないけど、勝てない・・。何としても勝つという意識を自分にそしてチームに植え付けないと・・。」

佐藤敦之の最終学年の挑戦はすでに大手町から始まっていた。

「打倒駒沢!打倒順天堂!」

キャプテンとして強い早稲田をつくる。

燃えに燃えていた。

そのときは一年後の佐藤敦之など知る由もなかった。

このあと佐藤敦之はまさに天国と地獄を味わうのだから・・・。

第9回 最終学年の想い・・・

「箱根駅伝-優勝。」「箱根に出たい-。」

箱根を目指すものなら、誰もが必ず願うことではなかろうか。関東の大学で行われる地区の駅伝大会であるのに。学年が上がれば上がるほど、その想いは痛切な想いに変貌を遂げていく。特に最終学年のその想いは、どこか狂気じみていた。何かに取り付かれたかのごとく、ひとのこころを変えていく。

なぜそこまで、人のこころを突き動かすのであろうか。母校に対する愛着心からだろうか。後輩へ何かを残して卒業したいからだろうか。その答えは分からない。

ただ、学生最後。

「最後」

「後がない・・」ということが、

人間離れしたエネルギーを生み出していく。それが箱根駅伝の魅力なのかもしれな。

私は最終学年のとき本当に優勝したいと心から願った。駅伝での勝利の味というものを味わいたかった。そしてキャプテンとしてチームを引っ張り、強いチームを作り上げる。派手さはいらない。泥臭い努力を積み重ねて、たたきあげて強くする。そんなチームカラーを作りたかった。

私はエリートという言葉が大嫌いだ。よく早稲田に推薦で入ってくる(私の推薦で早稲田に入ったが…)連中をエリートと呼ぶが、はっきり言って、言われたくなかった。小さな枠であればエリートと言ってもよいのかもしれないが、努力もせず、結果もださない者をエリートとは呼びはしない。それだったら、できないけれども、死ぬほど努力をして一歩でも前に進もう、自分を越えようとする人間のほうが私はエリートと呼んだ方がよいと思うのだ。

「努力のエリート」なのだから。

例えばエチオピア、ケニアの選手が日本のランナーをみてエリートと思うだろうか。答えは確実に「ノー」であろう。金満ニッポンのランナー(決してすべてのランナーに当てはまることではないが)には絶対に負けない。負けるはずがない。俺たちは生活のために、死ぬ気でやっている。絶対世界で勝って、家族の生活を楽にさせたい。こういう生半可でない気持ちをもっている競技者、アスリートをまさしくエリートと呼ぶのではなかろうか。だから私は、誠心誠意、努力を積み重ねて、そして最後の最後で手に入れることができるのが「エリート」という称号だと思う。だからちょっと努力したくらいで、ちょっと走れたくらいではエリートという称号は手にすることができないと思うのだ。

自分をエリートだと思って満足した瞬間・・・人は努力することの道筋を見失う。

早稲田を強くするためにキャプテンとして取り組んだことは、エリート意識を徹底的に捨て、地道な努力を徹底的に重ねる。気持ちのさび付きを取る。そして、刀鍛冶が叩き上げて真剣をつくるかのごとく、叩き上げてどんなことにも負けないそういうチームを作ろうとした。

遠藤さんたちが学生であったころのような強い早稲田(中村先生が監督のもと早稲田が30年ぶりに総合優勝した時代)を作りたかった。しかし、一年間は長いようで短い。だから一日一日が真剣勝負だった。キャプテンになって「優勝するためには何をすべきか」というノートをつくり、どうしたら強くなれるかを毎日、毎日ノートに記した。半年で4冊くらいになったであろうか。同じ学年の仲間と話しあったり、卒業された先輩などの意見を聞いて。本当に優勝できるチームを作りたかった。朝起きて、夜寝るまで・・強くなるチームにしたい・・。ずっと切実に考え実践した。

この心あながちに切なるもの、とげずと云ふことなりき。

(この心が強く切実なものは、必ず目的を遂げる・・)

そのことを信じて。

口先だけのキャプテンにはなりたくなかった。私の掲げたキャプテン像とは「背中でチームを引っ張る。」であった。つまり「走り」でチームを引っ張っていくこと。エースとして優勝するためには他のチームに恐れられるくらいのエースでなくてはならない。

「絶対的な不動のエース。それは、生長距離界のエースになること。」

それが私の究極のキャプテン像だった。態度で後輩に示す。それが一番よいと思ったのだ。

「究極のキャプテン」を目指すためにも最初に取り組んだのが、「初マラソン―びわ湖毎日マラソン」であった。将来マラソンで「世界に通用するランナーになる。」という夢のためにも、一歩でも二歩でも夢に近づきたいと思ったからだ。だが、最初は熊日30キロで学生最高を狙おうかと思っていた。それが、3年の11月であったであろうか。

早稲田の先輩でもある瀬古さんと食事をしたときに、その旨を伝えたら「あぁ~。アツシぃ・・。逃げちゃいかんよぉ~。逃げちゃぁ~。マラソンはマ・ラ・ソ・ンじゃないと分からないぃ~。あぁ~。やるんだったらマラソンの方がとことん本気になれる・・。あぁ~。マラソンをやるべきだぁぁ。ぁぁ~。」

独特の瀬古さん節のせいもあってか、もその気になってしまい。たった五秒考えたあと

「ほんじゃぁ、マラソンにでますぅ!」と、すんなりマラソンに出ることを決めた。というより・・・

決めちゃった。

3年の箱根が終わって3日後から3月5日に開催される「びわ湖」にむけてマラソントレーニングを開始した。遠藤さんがメニューを作ってくださった。

「一応つくってみたけど・・。多少伸び白をつくって練習をたてている・・。伸び白はおまえが工夫して、伸び白を埋めていってほしい・・。初マラソンだから2時間12分くらいでいければ合格点かなぁ・・。」と言われた。

とはいってもやはりマラソントレーニング。40キロ走、50キロ走、5000×6本など普段では考えられないようなメニューが次から次へと提示されてくる。それでも遠藤さんは「瀬古さんなんか70キロ走を3キロのアップダウンのある周回コースで平然とやっていたよ。腹がへって仕方がなくて途中からご飯のことを考えながら走っていたと言っていたけど(笑)。おまえの練習なんかまだまだ序の口。」

瀬古さんはもっとやっているからこんな練習は普通なんだと思ったらパァと気が楽になった。「なんだすごくないんだぁ。」と。如何せん、練習中は、スタミナ切れを起こしたこともあった。本当に身体じゅうのスタミナがなくなると、これ以上体を動かすと、危険な状態だと察知するため、脳の活動を停止させて活動を止めようとする。なので、頭が真っ白になり、おまけに眠くなっていく。

私は、眠いから道に寝ちゃおうと思ったが・・遠藤さんが「絶対寝てはだめだ。寝たら体温が下がって危険な状態になる」と言って。たたき起こされた。

「これがスタミナ切れかぁ。」よくテレビで「ついにスタミナ切れを起こしましたねぇ」という解説を聞いていたので、「これがスタミナ切れかぁ」ある意味スタミナ切れを楽しんで一人だけ喜んではしゃいでいた。遠藤さんには「ほんと、タフなヤツだ。」となかば呆れ顔だった。

なぜ私は喜んだかというと、試合の前にスタミナ切れを経験できたこと。そして限界にまでいけたこと。小さいころマンガでドラゴンボールを愛読していて、ぎりぎりの状態から復活するととり強靭な肉体になるということがたびたびマンガにでていたことを憶えていたので。

「ラッキーぃ!!」と思ったのだ。

だが、ひとは簡単には限界にまで到達することができない。自分の身体を守ろうとするため「こころのサイドブレーキ」がかかってしまう。そこを越えて限界にまできた。必ず身体はこのようなスタミナ切れという危機状態にまけないよう身体が反応し強靭な身体を作るよう脳が命令してくれると思ったから。スタミナ切れそのものがものすごく嬉しかった。実際、回復してから、以前よりきつさに耐えられる身体になっていった。試合前の2週間前に20kのペース走をやったが、ものすごく風が強く体力の消耗が激しいコンディションであったが、普段なら失速するものの、後半になればなるほど、ペースをあげていくことができたのだ。スタミナが身体からわいてくるような感覚であった。そのときは私は思った・・。

「もしかしたら・・もしかする・・。」

すごくいい予感がした。そのとき、タイム計測をしていた女子マネージャーの蔦川も「あつしさん、今日はいつもと違う強さがありました。」と言っていた・・。

言うとプレッシャーになるから周りには言わなかったが。

「9分台でちゃうかも・・だって30kを仮に1時間31分でいったとして・・。あと粘っちゃえば・・でちゃうよぉ・・!でちゃったらどうしよ!まっ、出てから考えればいいやぁ・・。」と。「怖いもの知らず」と昔からよく言われるが、そのときの「佐藤敦之」はほんとに怖いもの知らずであった。だた・・楽しんでいた・・。

之を知る物は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。

― ただ知ったり、行う人は好きだと思っている人にはかなわない。

好きだと思ってやっている人は楽しんでやっている人にはかなわない-

しかし、自分の中で「走れるかも・・。」という裏づけがあった。ひとつは「マラソントレーニング」プラス「歩くこと」で足りない部分を補っていたこと。そして限界を越えることができたこと。決して実業団のランナーにひけをとらない意識で努力をしてきたという自負があったのだ。

久々に・・「ワクワク・・ドキドキ・・。」

そんな気持ちでびわ湖のスタートラインに立つことができた。スタート前、遠藤さんには、「ハーフが折り返しじゃなくて、30キロが折り返し、35キロがあと3分の1と思って走れ!」と言われて送りだされた。レース中は「とりあえず30キロまで先頭について行ってやろう」と思って走った。走っていて次から次へと不思議な感覚に陥った。いつもならきついペースがすごく楽であった。そして周りがよくみえレースを楽しんでいる「佐藤敦之」がいた。ハーフ通過が63分47秒あたりであっただろうか。

「ありゃぁ・・。ハーフのベスト(当時のベストが64分24秒)が出ちゃった。公認にならないのかなぁ。」と思った。ハーフ通過のところで遠藤さんが応援していて思わずピースをして・・。シドニー五輪の選考会であったにもかかわらず、マイペースの「佐藤敦之」が走っていた。

25キロ通過。「あれっ?まだきつくない。さすがに「30キロの壁」といわれるから「きつくなるだろう。」と思っていての30キロ通過。1時間30分50秒。

「公認してくれぇ、あれっ?まだきつくない。」

30キロをすぎたらどんどん脱落者がでていった。「何かこのままいったらおもいしろいことになりそう。」ワクワクしながら走った。

しかし、さすがに33キロあたりで川嶋さん(旭化成→現:東洋大大学陸上部監督)がスパートしてからは、きつくなり先頭から離されはじめた。フィス(スペイン)と川嶋さんとのマッチレース。それをあたかも私は傍観者のような感じで眺めながら後ろで走っていた。ただ、早稲田の先輩である武井隆次さん(ヱスビー食品)が私より前に苦しくなって、そしてもがいているのに前方二人をワセダの後輩の「佐藤敦之」を抜き去って・・必死の形相で追っていく。

その瞬間、鳥肌が立つような身震いを感じ、身体がゾクゾクっとした。「先輩(武井さん)が頑張っているから俺も頑張る。」そんな気持ちになれた。武井さんが「俺について来い!」そんな風にもみえた。まるで大学一年のとき、練習で梅木さんにうしろからケツを叩たかれて

「いくぞ!」と言われて・・またわれに返って・・必死になって走る・・。あの感覚が思い出された・・。

「先輩いきます!」

そんな童心にかえって、私はラスト9キロを走った・・。残り4キロあたりできつくなって一度視力が定まらないときがあった。でも、「スタミナ切れをおこしたときよりはマシだぜぇ~だぁぁ・・。」と自分に自分で勝手に言い聞かせながら走った。

そしてラスト1キロ。

そこには遠藤さんと瀬古さんが立っていた。二人とも叫んでいたが、聞こえなかった・・。いや聞こえたのかもしれない・・。ただ・・限界で走っていたので、私の脳裏に二人の「声」が刻み込まれるだけ余裕はなかった。ただ映像としてだけ記憶に残っている。

そして優勝したフィスが2時間8分台でゴールしたあと、2時間9分4秒で川嶋さんが・・。30秒後に武井さんそして、私が4位でゴールした・・。記録が2時間9分50秒・・でゴール・・。何か久々に思っていた以上のちからがでて嬉しかった・・。失いかけていた自信を取り戻す・・。

いや、マラソンという新しい道を切り拓くことができた・・そんな嬉しさと喜びがあった・・。マラソンのスタートライン立てた・・。学生長距離界のエースを絶対狙える・・。そんな自分を信じることができる「佐藤敦之」いる・・。逆境を乗り越えて・・。

そんな気がした・・。

ゴール後、遠藤さんがかけつけてきて「まだまだだな・・。ここからがスタートだ」と言われたが、何故か顔は嬉しそうで、嬉しさを懸命にこらえているかのようにみえた。また、中国電力の油谷さんが出場(初マラソンで2時間10分50秒台で6位)されていたので監督の坂口さんも来られていた。

坂口さんには「佐藤にやられたぁ」と言いながらもこちらも妙に嬉しそうだった・・。前歯を出しながら・・。

ふと・・「中村門下生は行動と気持ちを一緒にさせない指導をされているんだなぁ」「でも・・瀬古さんだけは別か。」と妙に冷静に分析して・・そう思った・・。

「勝負に勝つためには感情を殺すものなのかな」と。

私にとって、2時間9分50秒の学生最高で走れはしたものの、同郷(ふくすま)である藤田敦史が出したときは冷たい雨でコンディションが悪かったし、今回のびわ湖では勝つこともできなかった。川嶋さんのような何としても五輪にでたい・・。勝ちたいという「気・迫」が私にはなかった・・。ゆえに・・課題がたくさん残ったのだ・・。取り組まなければならないことが山ほどある、と気持ちを引き締めなおした・・。「決して満足してはならない・・。満足したら成長が止まる・・。目指すはマラソンで勝つこと・・。世界で通用するランナーになること・・。」そう思った・・。

ただ、通過点としてマラソンを若いうちに体験できたことはよい経験となった・・。21歳で・・。(若い・・)

次の日から私を取り巻く環境が大きく変わっていったのをものすごく感じた・・。「次代のホープ」とうたわれ注目されるようになっていった。しかし、このあたりから、私は少しずつ自分というものに見失い始めていった。走ればものすごく走れるようになってはいったものの・・・

「身体と心」がだんだんと疲弊していった。

マラソン後の私は、スタミナに対して絶対的な自信を得ていたので、「トラックレースでも最初から飛ばしていってもつぶれない、つぶれやしない・・。」と思って走っていた。

練習でもラスト3000mからだんだんペースを上げていく、スピードランナーがもっとも嫌がるスパート方法を習得しようと幾度となく練習した。マラソンで得た「スタミナ」という「貯・金」をおろしながら。その結果、5月に行われた関東インカレ1万mでは山梨学院のデビット・カリウキをラスト1000mで振り切り28分32秒68の大幅自己新で優勝することができた・・。ラスト5000mのラップの方が早いまさにスタミナで自由自在にレースを操って勝利した瞬間であった・・。

びわ湖がまぐれではないこと証明したかったから「強・さ」で勝ちたかった。

「強・さ」を証明できた感じが自分の中にあったので、びわ湖のときより嬉しかった。神奈川大学・監督の大後さんもレース後・・「さとうは・・つよい!」と一言もらしていたらしい。陸マガでも「王者の風格」として取り上げられた。ただ、これだけでは満足はしたくなかった。次は「実業団の選手と互角に勝負する!」がそのときの私の課題であった。

関東インカレ1週間後の「ゴールデンゲームズinのべおか」の一万mに私は出場し・・28分25秒84の自己新。強い選手が多数参加している中、日本人2番の成績だった。自己新はでたものの、そのときのトップが藤田敦史さん。今回ばかりは勝てると思って臨んでいた試合だったのでものすごく悔しかった。

「マラソンで通用するランナーになる」同じ意識でやっているひとには正直言って、トラックでも負けたくなかった。この時点で私は、「学生との勝負だったら勝てる」という自信を試合を通して培っていった。6月は教育実習中に全日本大学駅伝の予選会があった。万全からはほど遠い体調であったにもかかわらず28分42秒で走ることができ、力がついたなと実感できた。

しかし、「走れる、俺はやれる」という「自信」が・・次第に「過信」へと変わっていった。とことん追い込めばもっと強くなれる・・。夏場追い込めば、秋には27分台が出せる・・。そして来年はマラソンで世界選手権代表を目指してびわ湖を走る。2時間8分前半で・・。その過程で箱根も勝ちに行く・・。次から次へと理想をかかげていった・・。「身体と心・・」が悲鳴をあげていることに、「破竹の勢い」で突っ走っていた自信過剰の「佐藤敦之」は気づくことができなかった。

自分でたくさんの落とし穴をつくっていることに気づかずに

4年の夏はまさに「鬼気迫る勢い」で限界まで自分の身体と精神をいじめつづけた。「限界への挑戦」をテーマにかかげていたのだから。8月の北海道合宿では40k走を取り入れる中、2000m10本をすべて5分50秒以内、5000m4本を14分50、14分40、14分25、14分14秒とまさに限界まで自分を追い込んだ・・。後輩にもいつになく厳しかった。ポイント練習で当時2年だった後藤信二が走り終わったあと座り込んで休もうとしていたので・・「後藤!立てぇおら!へこたれたら強くなれねぇんだ、走って休め!自分を甘やかすな!駒沢に勝ちたくないのか!」そのようなことを幾度となく繰り返していた・・。「絶対に勝ちたい・・」・・・今、考えると・・してはいけないことをしていたと思う・・。練習の絶対的な鉄則・・。

「感情的になって練習をすすめてはいけない」そのことを「佐藤敦之」分からなかったのだから・・。

すべてにおいてとことん

「完璧」を求めようとしていた。過信が冷静さを失っていった。

それでも、全日本インカレは夏合宿直後の9月1日からで、疲れもあり、暑さのある・・。そんな悪コンディションだったにも関わらず、「絶対的な力で勝負する」をうたい文句に、「佐藤敦之」は攻めに攻め続けるレースを1万mと5000mで展開していった。

ライバル永田宏一郎(鹿屋体育大→現:旭化成)に勝つために。

関東インカレはあくまで地区大会。学生ナンバーワンを決するのはやはり全日本インカレだ。永田は1万28分11秒、5000m13分30秒と圧倒的なスピードと、うらやましいほどの日本人離れしたバネのあるストライド走法で走っていた。ピッチで走る私とまったくといってよいほど対照的であった。暑い中でのレースは体力を消耗する。だったら前半から飛ばしに飛ばして永田の体力を消耗させ、武器であるスタミナで後半は粘りに粘り抜いて勝つ!」そんな戦略を練った。

1万mでは留学生と永田以外は完全に前半で振り払い戦意喪失させるようなレース展開をとることができたものの、やはり永田は強かった。何度も後半しかけて振り払おうとしたが、つかれてラスト一周でスパートされ敗れた。優勝したケニアの留学生カーニーがいたので、永田が2位で私が3位。

5000mは今度こそ勝とうとレース展開を変えて、前半抑えて後半ロングスパートしたが、結局、永田には歯が立たず2位であった。学生長距離界の「エースの称号」は永田に与えられた。悔しかった。しかし、永田との対決が・・私の学生のなかでのベストレースだ。

限界に挑戦し意地と意地の勝負ができたこと。決して気持ちが後ろに引かなかったことワセダの後輩に「走り」そのもので、自分の生き様を魅せることができたこと。そして何より「本気」でできたこと。「本気」で走ったから、敗れてもさわやかな気持ちだった。空をみあげて・・心地よい風を仰ぎながら・・。

「インカレになんかでなければよかった。

なっ、あそこまでおいこまなければよかった。」

11月、佐藤敦之は

「廃人」

と化していた。「走るのを・・やめたい・・もういい・・。」当時の日誌にはそう記してある。

9月の全日本インカレ後、佐藤敦之は極度の疲労状態に陥った。

身体がしびれて身体にちからが入らない、走れない。

10月の日本選手権1万mで27分台を目指していたが練習で高校生のようなタイムでしか走れず。遠藤さんに練習を止められた。嫌な感覚が頭をよぎった。

「ダメ人間、佐藤敦之。」

最初は単なる肉体的な疲れだけと思っていたので・・。休めば治ると考えていた・・。しかし・・日がたつにつれて・・そういう次元の疲労とは異なることを佐藤敦之だけが勘付き始めていた・・。「身体もズタズタだけど・・精神もズタズタ・・。」だと・・。

ちょうど私が四年 だったときはシドニー五輪が開催されていた・・。しかしテレビで見ていて苦痛だった・・。「なんでみんな・・あそこまで頑張れるのだろう・・今の俺はぜんぜん頑張れないよ・・最近まであれだけがんばっていたのに・・・。どうしてなんだろ・・前半がんばりすぎちゃったからかな・・調子にのりすぎたからかな・・・」

後悔の念のような心境であった・・・。それでも高橋尚子さんの金メダルはほんとうに嬉しく感じることができた・・・。「日本人でもやれるんだ・・・」と逆に男子のマラソンを見たら「川嶋さんが歯が立たないのなら俺の走ったマラソンなんてほんとまぐれだったのだろう・・な・・。男子ってそんなに弱いのかな・・・。」ものすごく悲しくなって涙がでた・・。いつもの佐藤敦之ならそこで「俺が立ち上がって払拭してやる・・。」くらいの気迫があるにのに・・。

がんばるエネルギーがわいてこないのだ・・。どう頑張っても・・。頑張らなきゃいけないのに頑張れない・・。そんな悲しさから涙がこみ上げてきた・・。そんな弱いところを後輩にはみせられない・・。部屋でひとり・・泣いていた・・。

いつしか走ることができなくなり・・10月の出雲大学駅伝、11月の全日本大学駅伝欠場・・・。出雲はワセダはまずまずの結果であったが、全日本は10位と惨敗・・。エース、キャプテンが機能していないチームが勝てるはずがなかった・・。

「走れない・・頑張れない・・・頑張りたいけど・・何をやっても・・変わらない・・」考えれば、考えるほど、落ち込んでいった・・いろんなプレッシャーに押しつぶされそうになった・・。ものすごく・・エースとしてキャプテンとしての責任を痛感した・・。そして、一人の親友・・いや、パートナーと言った方がよかろうか・・。親友に申し訳ないという気持ちが募っていった・・。その親友とは私の学年で、主務(マネージャー)を務めながら最後の箱根の6区を大角重人(おおすみ しげと)だ。

大角は一般で早稲田の理工学部に入った・・・。高校時代は滋賀県水口東高校で全国高校駅伝に出場し大角が高校2年生のとき9位という成績を収めている・・。私の学年は推薦で入ったのが私ひとりだけだったので、駅伝経験者としてものすごく頼れる存在であった・・。走っても力がある・・。しかし大学2年のとき、大角が主務に任命された・・。主務とは競走部全体の事務的な仕事を管理し、部の司令塔的な仕事をしていなければならない・・。そのため、本来ならば・・主務は競技を断念し、チームのために任務を遂行しなければならなかった・・・。そのくらい主務の仕事には責任があり、激務なのだ・・。学年ひとり2年のときに選出しなければならない・・。主務になると競技を断念しなければならないので、それだったらと・・部を去っていく者も多かった・・。主務選出にかなりの議論を費やしたことを今でも鮮明に憶えている・・。私は大角を主務として選出した・・。チームをまとめるにはこの人間しかいないとおもったからだ・・。「情熱がある・・周りをよくみることがでる・・そしてなにより駅伝を知っている・・」だから選出した・・。ただし私は大角にこう言った・・。「決して箱根を大角が走るという夢をあきらめないでくれ・・。俺らの学年が一致団結して、やっていけば必ず主務をしながらも選手として走ることができるはず・・。最終学年になって、俺がキャプテンになって引っ張っていくときにどうしても大角のような意識の高い人間が必要だ。パートナーとして・・。大角がきついのは分かっている・・。主務が選手として走ることがタブーだということはよく分かっている・・。でも大角と一緒に新しい道を切り拓いていきたいんだ・・。やらずしてダメだと諦めたくない新たな伝統の一ページを共に刻みたいんだ・・。ワセダ記録の掲示板に俺はマラソンで名を刻む・・。大角は[走る主務]で名を刻む・・。やってやろうぜ・・。未知なるものへの挑戦を・・。」

そう誓っていたのだ・・。社会人になっても大角とは連絡をとっている。話し始めるといつのまにかお互い将来のことを語ってしまう・・。そんな仲だ・・。現在大角はスターツ陸上部でマネージャーとして新たな人生を歩んでいる・・。

お互い誓ったはずなのに・・私が裏切ってしまった・・箱根直前・・走ることができずなにもできないでいた私は何度もそう思った・・。

申し訳ない・・大角の負担がますます大きくなってしまう・・・。せめて・・。せめて・・大角の夢だけはかなえて欲しい・・。

こころからそう願った・・。大角は理工学部であったので・・勉強のほうも多忙であった・・。一,二年のころは実験が忙しくて、練習も土、日しか顔をだすことができなかった・・。空き時間をみつけての練習・・。レポートに追われて徹夜でレポートを仕上げる日もあったそうだ・・。「陸上、主務、勉強」、「にそくのわらじ」どころか、「さんそくのわらじ」をはきこなして生きている大角をわたしは心から尊敬していた・・。それに比べて・・・。「俺は・・一足も満足に履くことができない・・。」

「情けない・・これでよく世界を目指すなんて周りに言っているよ・・。情けない・・」

自分で自分のことを責め続けた・・・。

ほんとうにさいごはキャプテンとしてエースとして何もできなかった・・・。迷惑だけをかけ続けた・・。チームに・・。大角に・・。

最後の箱根は付き添いとしてチームを見守った・・。何もできない、何もしてあげることできない自分・・。情けなくて・・。情けなくて・・。悔しくて涙をぐっとこらえて・・見守っているしかなかった・・。人生で一番長い一日だった・・。一睡もできずに・・。それでも親友・・大角は6区を走ってくれた・・。箱根前足が痛く思うように走れなかったにもかかわらず、ぐっとこらえて・・チームのために走った・・。大角が私のキャプテンの仕事まで代わりにやっていたのだ・・。大角は自分のことで精一杯であったのにもかかわらず・・。12月に大角は私にこう話かけた・・。

「困ったときはお互いさまだよ・・。あっくん・・俺もそうだけど四年みんながあっくんがここまで頑張ってきたから・・今の俺たちがあるってみんな口をそろえて言っているよ・・。俺はあっくんが『苦しいときが一番成長しているとき・・・。』って、あっくんの言葉にすごく助けられたんだ・・。あとあっくんにもらったマラソンシューズ・・。あっくんの足の大きさが一緒だからぴったりなんだ・・。もらったシューズ履いてからから走れるようになったのだから・・。アツシの意思を受け継いで走るからしっかり見守っていてくれ!」そのころの私は泣き虫であったので号泣した・・。

しかし、どんな頑張りが想いがあったとしても、結果・・とは冷徹なものだ・・。10区アンカー四年の鈴木陽介(一浪してワセダに入学、故障続きであったが、独自の信念と哲学を貫き、最後も痛み止めの注射を打って箱根に人生をかけた・・。)の区間新の激走があったものの、三十秒差で十位と・・またしても・・シード権を失った・・。あれだけ、気丈に振舞っていた大角も堰を切ったかのように号泣した・・。私は・・キャプテンとして泣くまいと必死に涙をこらえた・・・。

しかし、レース後全体あいさつで主将としてのあいさつのとき・・。

「今回は早稲田が敗れたのは私の責任です・・。どうか後輩たちを責めないでください・・。必ず後輩たちが強いワセダをつくって一年後大手町にかえってきますので・・。」

何とかこらえてあいさつした・・。しかし・・。こらえていたものが・・。

「みんな・・・・ホントウにゴメン・・・ゴメンなさい・・・。」

張り裂けんばかりに号泣した・・・。泣いても何も変わらないことは痛いほど分かっていたのだが・・・。心の底から泣いた・・・。

そのあと、遠藤さんももとへ謝りに言った・・。

「そんな・・自分を責めても仕方がない・・・。今日は泣けるだけ泣け・・・。すべて吐き出せ・・。その代わり俺は泣かない・・。必ず本当にチームを強くしたいと取り組んできた敦之の意思を受け継いで必ず強靭なチームを創る・・・。おまえは中電の坂口さんのもとで復活・・ではなくより進化を遂げるんだ・・いいな・・・敦之!約束だ・・。」

遠藤さんがものすごく強いひとにみえた・・・。まるで父の背中をみているかのように・・・。

閉会式が終わるころにはだいぶ気持ちが落ち着いた・・。そして大手町から空をみあげて・・・。

「ドラマみたいに・・・・ハッピーエンドでは終わらねぇものだなぁ・・・」

と、こころのなかでそうつぶやいた・・・。

そして・・・。

「12月の福岡国際マラソン・・・目指そうか・・・・。」

自分のためにではなく・・。後輩のために・・・。

箱根駅伝が終わった気がしなかった・・・。

後輩はもがきながら、これからもがき苦しみ・・這い上がろうとしている・・・。

俺も後輩と共にもがき苦しみ・・・たい・・。

所沢と広島・・・。遠く離れているけれど・・・

空はつながっている「ほんとうの空で・・。」「こころ・・・で・・つないでいたい・・。」

そう思った・・・。

大手町に走らなかった私を父が応援にきてくれていた・・。号泣していた私に「泣くな・・耐えろ・・。」と親父ながらに励ましてくれたことを鮮明に憶えている・・。心から嬉しかった・・。できない息子を見守ってくれている・・父の姿に・・・。

父を高校のとき恨んだが・・恨んだ自分を恥じた・・。

そして父がこう言った。

「元旦の実業団駅伝で中国電力キャプテンの内冨さんが今年は3位でしたが・・来年はワセダの佐藤が入ってくるので楽しみです。さらに上を狙います。と、いっていたぞ。お前に期待しているんだ。がんばれ・・。」

こんなダメな佐藤敦之を期待してくれる人たちが・・広島にいる・・。

「中国電力・・・広島に・・・人生をかけてみよう・・・。」

そう思った・・・。

早稲田から・・・・中国電力へ・・・・。

遠藤さんから・・・・・坂口さんへ・・・・。

たすき・・・が繋がれていった・・・・・。

そして・・・一通の手紙が心のたすきをつないでくれた・・・・。

次回最終回・・・・。

第10回 あまり・・完璧だと疲れます・・。

因果応報(いんがおうほう)

人間の行いの善悪に応じて必ず報い現れるということ

最後の箱根駅伝が終わったあと、私は、その年(2001年)の12月に開催される、福岡国際マラソンに出場しようと決めたものの、全くと言ってよいほど頑張ることができなかった・・。いつもの「ダメ人間佐藤敦之」になってしまっていた・・。自分の殻に閉じこもり、前に進むことができない「佐藤敦之」であった・・。

それでも、今回ワセダがシード落ちしたのは、自分の責任という気持ちが強かったので、1月8日の解散後の集合練習)にでた。別に4年生は箱根が終われば練習にでる必要はなかったのだが、出ずにはいられなかった。

しかしもうそこには、私のいる場所はなかった。後輩たちが必死になって這い上がろうとしている。遠藤さんも後輩たちに厳しい言葉をつきつけていく。何か後輩たちのちからになることができたらと思い、練習には出てみたものの、自信を失い、頑張っていない佐藤敦之がここにいたら、邪魔になるだけ。そんな気持ちだけが募っていってしまった・・。何にも後輩たちにすることができない、頑張れない自分が嫌で仕方がなかった。

思えば思うほど、いつしか「佐藤敦之」は頑張らなくなっていた。

ただ、今回の試練も何かの縁なのだと思うことができた。

実は、私は、12月4日の時点で人が変わったかのように元気になっていた。自分でもなんで元気がでなかったのだと不思議がるくらいに気持ちが元気になった。箱根は、故障で出ることができなかったのだが・・。

9月の全日本インカレ後、極度の疲労状態に陥り・・・11月、佐藤敦之は「廃人」と化し「走るのをやめたい・・もういい・・。」と、日誌に記したほど・・・本気で陸上を辞めようと思った。こんな感じで中国電力に行ってもできるはずがないと・・入社前だったら迷惑をかけないですむと思い、本気で中国電力監督の坂口さんに断りの手紙を書こうかと思っていた。ただ、遠藤さんが「坂口さんがそのような症状でも、走れるのはウチ(中国電力)しかないと言っていたぞ。」とおっしゃっていたので、決断を待つことにしたのだが・・。そのよう日々を送っていたのだが、

復活のあの日―

12月4日の復活は、私にとって誰かが力を貸してくれたとしか思えてならなかった。その人とは、藤田敦史さんだ。12月3日に福岡国際マラソン(2000年)があった。

そこで藤田さんは当時の日本最高(2時間6分51秒)で優勝している。タイムもすごいが、レース運びがものすごかった。「レースを支配して勝つ」藤田さんはよく口にするが、まさにレースの主導権をにぎって圧倒的な力で勝つ「次元の違う走り」であった。その走りは私にとって、藤田さんのメッセージであったと思えてならない。走りのメッセージ・・・。

「こんなところでくたばっていては世界は狙えないぞ。自分の力で這い上がるんだ。同郷の者として、同じ(アツシ)として・・。円谷幸吉さんを越えるんだ。それが俺たちの使命だ・・。」

そんなふうに感じた。藤田さんの走りが・・藤田さんのちからが・・私を復活させたのだと今は思えてならない・・。福島には今は亡き東京五輪(1964年)マラソン銅メダリスト円谷幸吉さんがいる。若くして自らの命を絶った・・。もう走れませんと・・。だからわたしは決してどんなに苦しくても死んではいけない。それだけは心の底から思う。同じ過ちを繰り返してはいけないと思うのだ。円谷さんの競技成績には到底及ばないが、私が苦しんで悩んでいるとき、両親はいつも「どんなに辛くても円谷さんのように命を絶ってはいけないよ。」と言われた。藤田敦史さんは日本最高で優勝したあと、故郷福島に帰り、円谷さんの墓を訪れたそうだ。福島県がマラソンに対して並々ならぬ情熱を燃やすことができるのは円谷さんのことを親から、先生から、そしてふくしまという風土から教え伝えられていることが大きいのだと思う。マラソンがどうしても「生きる」ということに結びついてしまう・・。私の夢は「オリンピックのマラソンで円谷さんを超えることで、そして円谷さんが後輩たちに伝えられなかったことを生きて後世に伝えること」だ・・。

そのようなことがあったから、ダメでもしっかり生きていこうと思った。

ただ、やはり箱根を走れなかった、自分の心が崩れて走れなかったことに対していろんなことを言われた。早稲田大学競走部、鈴木重晴監督には・・。

「おぅ、若いのに、軽々しく自分の責任だと言っちゃいかん!本当に責任がとれるのか?おぅ。とれないだろう。花田、渡辺康幸は一流。お前は一流じゃない。五流だ!」と。また、納会のあと、飲みに連れて行かれて、鈴木監督が酔っていたせいもあるのだが。ほかに「おぉ、そんなちょっと走れないくらいくらいでノイローゼなんかになって馬鹿じゃないのかおまえは。そんなちまちま考えているからそうなるんだ。おれは骨折しても病院にいかんぞ。理由は、放っておけば骨がくっつくからだ。そのくらい、でぇんと構えてろぉ。ほんとうに情けない。今日は死ぬほど飲んで忘れろ!」その日は監督と一緒に日本酒一升瓶を4本くらいあけた。私は無事であったが、監督は酔いつぶれて、なんとか飲み屋のおやじさんとで監督をタクシーに乗せ帰ることができたのだが・・。言うことはえらくきつかったが、本当のことを言ってくれてありがたかった。

また、遠藤さんにも、四年生ご苦労様でした会で遠藤さんと飲んだときに、「遠藤さん、俺どうしたらいいか分からないです・・。何がかんだか訳が分からなくなって・・。」と私は言って、遠藤さんに励ましの言葉を求めていた。しかし、遠藤さんは、「お前は、自分を知っているようで何も知っていない。おまえの読む本なんて何とかを強くする科学とか、○○学。そんな本ばっかりじゃないか、そんな本ばかり読んでいたってね、自分を知ることなんてできやしないの。もっと心から感動して涙を流すような小説や、映画をみないと・・。あつしはぜんぜんみてないだろう。見ないよなぁ・・。もっと人間っていうものを知らないとダメだ。うすっぺらいんだよ。おまえは。うすっぺらいから崩れるんだ。あとな、米澤先生も言っていたのだけど、たとえ前のような症状になって医者から薬を処方されても飲むな。もっと根本的なところに原因がある。つまりはおまえの心のあり方だ。まぁ、今回失敗したんだからもう一回這い上がるまで時間がかかる。そのあいだによぉ~く、よぉ~く。自分を見つめ直すんだ。いいな・・。」励ましどころか私の弱いところの核心部をつつかれたような感じで、また私の生き方をすべて否定されたような感じで、そして何より遠藤さんの言われたことを真剣に忠実にやってきたのにという想いが強かったから、このときばかりは遠藤さんを恨んでしまった・・。もう遠藤さんの教えられたことなんてやるものかと思ってしまった・・。それほど私の心に強烈に響いた。

みな私に対して厳しかった・・。特に親身になって私に大切なことを教えてくれた方は特に・・。しかしこれが遠藤さんが私にできる最高の指導だったのだと今は思う。私を突き放すことで広島・・坂口さんのもとへ行きやすくするために・・。

新田さんも同じだった・・。落ち込んで暗い顔をしていた私に・・。

「別に陸上辞めたっていいんだぜ!やる気がないのなら・・。おまえが走らなくたって世の中なんて動いていくんだよ。おまえより苦しんでいる人なんて世の中にたくさんいるんだ!いつまでも自分に甘えているなよ!」

自分では分かっていてもやはりひとから・・信じていたひとに言われるのは心底きつかった。

そんなこんなで一月は、多くの方々に叱咤激励をうけ、ありがいのは分かっていたが頑張れなく、ひとりもんもんとしていた・・。

それでもどうにか、1月終わりから「また走り始めようかな・・。」と思いはじめた。普通の四年生だったら、卒業旅行などして思い出づくりを楽しんでいるのに・・。私にはそんな余裕はどこにもなかった。「いいなぁみんな楽しめて・・。」こころが幼いなと思いながらも思わずにはいられなかった。這い上がらないといけない・・。

広島で・・。中国電力で・・。坂口さんのもとで・・。

私の中国電力での生活は2月5日に沖縄合宿からスタートした。初めての沖縄・・。すさんでいた心に沖縄の暖かさが、そして、こせこせしないどこかおおらかな沖縄の人々の心情がわたしの心を癒していってくれた。また、知り合いがほとんどいないところで、私の尊敬していた梅木さんがいることがものすごく心強かった。

ところで、私はよく「なぜ中国電力を選んだのか」とよく聞かれる。そもそも中国電力は中国地方の選手が集まった地元の実業団チームなのだ。

私の出身は福島、東北地方だ。普通に考えればいかないだろう。しかし、それでも選んだ理由としては確かに尊敬する梅木さんが中国電力に早稲田から進んだということも大きいが、やはり一番の大きな理由は監督坂口さんの存在だ。

このひとなら私の弱いこころを理解し、自分で自分の心を強くする道筋を教えていただけると思ったからだ。それは、私に贈ってくれた一通の手紙がすべてを表わしている。坂口さんからの手紙・・(日本の長距離界が、さらによくなることを願って、あえてここに紹介させていただきたいと思います)。

拝啓

初マラソンが終わりホットするとともに、次の目標に向かって始動されていることと思います。寒中にも春の訪れが感じられるこの時期が来ると現役を退いて十年にもなろうかというのに、トラックシーズンに向けての緊張感が思い出されます。

さて、人は誰でも成長する過程の節節で自分の進むべき進路を決めなくてはなりません。そしてその選択が時として自分の将来を変えてしまうため迷うものです。今、貴兄がマラソンの世界に足を踏み入れたことを当然と思っているかもしれませんし、そうでないかもしれません。ただ陸上競技との出会い、また多くの人との出会い、さらに世に生を受けたことが貴兄を現在の立場まで成長させてくれ導いたことは理解できると思います。

私は世羅という駅伝の盛んな地で生まれました。小学校のころは走り高跳びが得意で中学でも走り高がやりたくて陸上部に入りました。ところが顧問の杉原先生が何を思ってか長距離をやらせたがりました。苦しいからやりたくなかったのですが、実家が山の奥で買い物に行くにも往復4キロの道のりを行かなければならず、歩いていては時間がかかるので走って往復していたせいか、思いのほか走れるようになりました。高校進学は世羅高校しか近くにないので世羅高校に行くことを決めていました。全国高校駅伝に出たかったので陸上部に迷わず入りました。当時の監督は、宮広重夫先生(現:広島経済大学陸上部監督、都道府県対抗男子駅伝広島県チームの監督も務められている)でいまでも当社(中国電力)陸上部のコーチになっていただいているのですが、宮広先生と出会ったおかげで1年生では国体で三位、三年生ではインターハイ、国体で優勝することができました。三年生の夏までは地元の広島大学に入って先生になろうと思っていました。しかし瀬古選手に声をかけていただき、中村清監督が実家まで来られ考えが変わりました。

滅びに至る門は広く神に至る門は狭い。狭き門より入りなさい。と聖書の一筋を引用しておっしゃりました。他にも多くの話を聞きましたが、分からないなりにもこの人は並みの人ではないということはわかりました。当時家には早稲田に行けるほど程の収入はありませんでしたが、両親は中村監督を信じて東京に送り出してくれました。

私にとっては中村清監督との出会い、また中村学校での教えが、財産であり、今の生き方、これから進むべき道を示してくれています。

中村監督の教えといってもなかなか理解するには難しいのですが、毎日、毎日、何時間もの話で監督がわたしたちに分からせたかったことは、一言で言えば「心で走れ」ということだと思います。

このことは後に説明するとして、監督は芸術という概念をマラソンにあてはめた唯一の人だと思います。芸術とは何ぞやということになると芸術原論のような授業を受けたことがないので正確な定義はできませんが、私なりに理解では「普遍性を持って人の心に働きかけるもの」ということになるのではないかと思っています。良い絵は時を経ても色褪せることはありません。良い音楽は時空を超えて人の心を魅了します。マラソンもそれらと同じではないかということなのです。

それでは誰もがその領域まで辿り着けるかといえばそうでないことは明白です。普遍性とは神に置き換えることができると思うのですが、神に至る門は狭く神に至る道は険しいのです。

フランスのある哲学者が言っています。人には学ぶことと祈ることが必要である。その祈りには訓練が必要であること。走るという訓練を通し心が神に近づく過程を経てこそ本当のマラソンができるのではないかと思います。その心こそが大切であるということが「心で走れ」ということだと思います。

これは概念に過ぎないと思われるかもしれませんが、実際に中村、瀬古の師弟コンビを目の当たりにしていた私たちにとってはそれは現実にできることだということが分かります。またこの様な観念や信念をもってのアプローチが今の陸上界にほとんどないこともわかります。

今の陸上長距離界には、素質をもった選手がたくさんいます。それらの選手が自分の能力を十分に発揮しているでしょうか。これからが本当の陸上競技だという手前で多くの選手が立ち止まり、それを良しとしているのではないでしょうか。

貴兄と話しをし、またマラソンの走りを見ることができ、本当に強くなりたい。そのためにはどんなことでもしたいという痛切なまでの思いを感じ深く感じ入りました。

残念ながら私は貴兄に何でもやりたいことをやらせてあげるという提案はすることができません。しかし、アテネ、大阪で金メダルを貴兄の胸に輝かせるためのあらゆる手段を提供することは確約できます。もしあなたが当社(中国電力)に来ていただけるなら金メダルをとるためのひとつのプロジェクトを運営していく考えでやりたいと思っています。いかに貴兄がやる気があり、優秀であるといっても多くの人の協力がない限り、航海図も羅針盤ももたずに海に漕ぎ出すにも等しいことになります。

私は十年でこのチーム(中国電力)を創ってきました。最初の二、三年は(練習する)時間ももらえず予算も少なくお先真っ暗でした。しかし私も後がないので必死でした。そのうち理解していただける人も増え、(練習する)時間ももらえ予算のことも理解して増やしてもらうことができ、今のチームにすることができました。その過程で、一人の力でできることなど本当に限られているということを身に染みて感じました。今では社内、社外とも多くの人が協力してくれます。

特に大学院(当時、坂口さんは中国電力で監督をするのと同時に、広島大学大学院に通っていた)での私の担当教授でもある新畑茂充先生(現:デオデオ女子陸上部監督)には陸上部コーチとしてさまざまな角度から協力をしていただいています。新畑教授(ストップ・ザ・オーバートレーニングの著者でもある)は昔世羅高校を二度の全国高校駅伝優勝に導きそのうち高校新をつくった名監督です。昔は口より先に手が出たそうですが、今では信じられないほど優しいです。

恩師の宮広先生は広島経済大学の監督で様々な助言をいただいています。

中村学校のメンバーである瀬古さんや遠藤君とはトレーニングを理解しあうことができますし、陸連の村尾さんには、立場を超えて意見をいただいています。同じ釜の飯を食べた仲間はありがたいものです。

中村監督の奥様には監督の教えを忘れないようキツくも暖かいお話を伺うことができ本当に感謝しています。毎年元旦の駅伝が終わったらお年賀に行くのですが、今年はあまりに成績が悪かったため(2000年中国電力は23位と惨敗・・その前の年が3位・・。)コテンパに言われました。本当にありがたいことです。

私は自分の人生を振り返るには早すぎるかもしれませんがチラっと振り返って、節節の選択には自然、偶然、意志もありますが、後悔がありません。本当の事を教えてくれる多くの人に出会い人間関係を、自分も成長することができたからだと思います。

私は貴兄に心からこの地(ひろしま)競技生活を送っていただきたいと思っています。もしそうなった場合、決してその選択を後悔させるようなことはしたくありません。マラソンランナーとしても一人の人間としても大きく育っていただきたい。私は力を尽くしてそのために努力をします。金メダルを手に入れましょう。

敬具

坂口 泰

このような、すばらしい手紙をびわ湖のあと私に贈ってくださった。当時私はこの手紙の内容のすべてを理解するまでには至らなかったのだが、中国電力に行こうと決めたのは坂口さんの

「何でもやりたいことをさせるということ提案することはできません」

というところにあった。何社かから勧誘はあったが、「君のしたいことをやらせてあげる」という会社がほとんどであった。

しかし、坂口さんだけは違った。

やはり本当に強くなる道筋を知っている人でないとそのようなことは言えない。私は自らの提案でしたことが必ずしも成功するとは限らないということを自らが失敗を通して経験していた。だから、余計に私の今まで歩んできた人生を見透かされているような気がしてものすごく魅力を感じた。そして現に中国電力はマラソンで走れている人が多い。坂口さんのもとでトレーニングを続ければ必ず強くなれる。肉体だけではなく精神も。いつしか走ることを辞め、新たな人生を歩もうとしたときでも必ずどんなことにも屈しない自分というものをもてるはず・・。そんなふうに思えた。「ここしかない・・。」と心から思うことができたのだ。

また、中国電力陸上部の歩んできた道のりにも心打たれるものがあった。平成元年に創部したのだが、創部当時は社員と同じ5時まで働き、そのあとから練習であったのだ。練習が終わって家に帰るころには10時を回っていた・・。合宿も土、日の休日を使って合宿と決して練習環境は恵まれていなかった、本当に時間のありがたみ、環境を提供していただく、会社への感謝の気持ちが分かるチームなのだと坂口さんが渡してくれた「中国電力10年のあゆみ」を読んでそう思った・・。私は「中国電力10年のあゆみ」のなかの坂口さんの言葉に感動した。

創部当時はよく公園で練習していました。

暗く足元のおぼつかない道を、所々にある街灯の灯りを頼りに走っていました。

明るいうちに練習できたら分からなかったことと思いますが、私たちの足元を照らしてくれる灯りは本当に大切で、ありがたいものだと気づきました。

当時の気持ちを原点とし、順調なときも、困難に直面した時も感謝の心を忘れることなく

自分自身に挑戦しつづけていくことができるチームでありたいと思います。

陸上競技部 監督 坂口 泰(やっさん)

どことなく坂口さん(やっさん)の文章を読ませていただくと頑張りたくてもどうしても越えることのできない壁を知っている方だと思えた。しかし、その壁に屈することなくじっと越えられる時期を待つ。越えるために懸命な努力を重ねる。どこか・・会津の冬に似ていた。冬、雪という現実に向かい合わねばならない。向き合って努力をする。ハンデがあったとしてもハンデと思わず、冬の寒さ、雪を味方とし、どんなことにもくじけない精神を養う。できないときをしっているからこそ、できるときに感謝することができる。ものすごく中国電力というチームに共感をもつことができたのだ。だからわたしは中国電力というチームに想いを込めて走ることができるのだ。

つい最近親友の大角と電話をして、大角が言っていた。

「何でもそうなんだけど、チームカラーや人の信念にハマったり、染まったりできるひとは強いと思う。あっくんの場合、中電色と坂口スピリッツにハマっていると思うよ(笑)」

確かにそうだなと思った・・。

また挫折した私にとって尾方剛さん(29歳・B型)の存在は大きかった。心強かった。尾方さんは昨年(2002年)12月に開催された福岡国際マラソンにおいてシドニー五輪、エドモントン世界選手権の覇者、ゲサハン・アベラに敗れはしたものの、アベラに2秒差の2時間9分14秒で2位に入り、今年パリで開催される世界選手権代表として内定している。今でこそ輝かしい成績を残しているが、中国電力に入社当初は、故障でまったく走れず、どん底状態であったらしい。失意のあまり、全身脱毛症になりまったく走れなかった。それが尾方さん(GTO)の中電でのスタートであった。そんなどん底にもかかわらず、監督の坂口さんは尾方さんに次から次へと厳しい言葉を投げかけたそうだ。「おまえなんか走らなくても別に世の中は困らないんだ・・。走れないなら1年でクビだ。そんなお守りみたいのつけていたって走れやしない。おまえの気持ちに問題があるんだ。」と監督は尾方さんをとことん追い込んだ。尾方さんは「人生の敗者になりたくない」その気持ちがあったためか必死に耐えた。そして、人一倍努力した。そして今の尾方さんに至った。どんなに挫折しても諦めないで努力を積み重ねれば、必ず成果となって現れる。自分の挫折なんて尾方さんの挫折から比べれば、「プチ挫折」と思えてものすごく勇気づけられた。尾方さんのようにあきらめないでこつこつ努力していこう。そう思った。

今年(2003年)の実業団駅伝を私は発熱で走ることができなかった。チーム(中国電力)が優勝を狙っていたというのに(結果は3位)。私自身ものすごく悔しく、チームに迷惑をかけて申し訳ないという気持ちだった。試合が終わって数日後、尾方さん(GTO)にはこう言われている。「敦之は今回走れなかったことはものすごくチームに迷惑をかけた。敦之は今年一年間駅伝の重みを背負って走らなければいけない。もっと仲間を信頼すべきだ。」尾方さんらしい私への激励であった。決して甘えさせない。尾方さん自身が坂口さんに厳しいことを言われて成長することができた。だから尾方さんは私に頑張れよという代わりにそう言ってくれたのだ。本当にありがたい言葉だ。

中国電力の先輩は決してできない後輩に優しい言葉を投げかけない言われた本人はきついが、成長できたほうがより大きな喜びを分かち合えるという愛情の裏返しなのだ。五十嵐さん(30歳・10月28日生まれ・B型・三回連続2時間9分台という偉業を遂げた。中電初のサブテンランナー。)にも「今回、優勝できなかった一番の責任は、敦之!」と言って下さっている。本当にありがたいことだ。統括マネージャの宮脇さん(巨漢)にも「元旦まえの佐藤にはおごりがあった。わしは、あなたの走りを一度しかみてないが、走りにそのおごりがでていた。そこをよく反省しんさい」と失敗の原因、心のあり方を指摘された。本当にみな親身になって考えてくださる方ばかりだ。

そして油谷さん(25歳・2月8日生まれ・独身・B型・通称:あぶさん)の存在が大きい。中電のエースだ。2001年のカナダ・エドモントンの世界選手権マラソンにおいて見事5位入賞を果たしている。俺たち(中電)も努力を積み重ねれば、世界で闘えることができるんだ。俺たちもやれるんだ!油谷さんはわたしたちに夢と希望を与えてくれた。

私は中国電力というチームの中で少しずつ心が癒されていった。もんもんとしている心の中で、当時の私は、次の歌詞をよく口ずさんだ。

・・・・ 全てを失って 明日がみえなくて 迷うばかりでも どうか胸を張って 

その悲しみが その虚しさが 報われるときが 必ずくるから・・・・

・・・・見栄と意地を捨てて 夜明けを探そう・・・・

私の心情にあまりにもあてはまりすぎていた。わたしはあまり音楽は聴かないのだが、たまたま、この曲と出会ったのだ。

7月くらいからだいぶ走れるようになり、9月には5000m、1万mでともに自己新(13分49秒、28分13秒)を出すことができ、少し元気を取り戻すことができた。これなら何とか福岡(国際マラソン)を走ることができる。そう思えた。

しかし、やはり心の靄(もや)はとることができなかった。靄とは、「箱根の呪縛」だ。当時の私を知っているひとは口をそれえてこう答える。「なにかにとりつかれて走っているようだった。」と。

箱根の呪縛・・・

後輩への申し訳ないという想い

己の弱さからくる自信のなさ

なんとしてもマラソンを走らなくては勝たなくてはというプレッシャー・・・

責任、後悔、落胆、自信喪失・・いろいろなものが後ろをついて回っていたのだ。

私の心はどことなく靄がかかっていてすっきりしなかった。

その靄の中に一筋の光をさしてくれた。

わたしの祖母の手紙・・。ばーちゃんの手紙だ。

その手紙はわたしがマラソンを走る前によこしたものではない。私が大学3年のとき、びわ湖毎日マラソンを走ったあとによこした手紙だ。私がマラソンを走ったあとにこのような手紙をばーちゃんに送った。

・・・・ばーちゃん、今の日本は病んでいると思います。感謝、謙虚、和・・。これらの日本の美しい心がどんどん失われつつあります。だから自分は、マラソン、走ることを通して、感謝、謙虚、和の大切さを表現したいと思います・・・・

と記した。

その返事の手紙が、部屋の整理をしているときたまたま見つけて一年ぶりに読み返したのだ・・。

敦君(あつくん)へ

・・・あまり、完璧だと疲れます

肩の力をぬいてありのままで

そして

ユーモアの分かる人間になってください

失敗しても、挫折しても

人生に無駄など存在しないのです

どうか気を楽にして

のびのび生きてください

坂下(ばんげ)の ばーちゃんより

福岡を何がかんでも走るという私の固い意志はどうしても箱根の前にという想いが強かった。何とかして後輩に走りで示したい。完璧な走りで・・。完全復活で・・。全てにおいて完璧を求めていた・・。

ばーちゃんの手紙を読んでどことなく自分の心の焦りに気がついた。

俺は・・最終学年になったときから、ずっと完璧を求め過ぎていた・・。

完璧な先輩

完璧な考え

完璧な結果

完璧な態度

完璧な練習

完璧な生活

すべてに完璧を求め続けていた。

ばーちゃんはそれを知っていたのだ。

しかし、びわ湖のあとすべて夢中であった私は

その大切なことに気がつかなかった。

そんな自分を・・私は恥じた・・。

そして、こころから涙を流した・・。

完璧、完璧、完璧じゃくたびれるよなぁ。もたないよなぁ。

完璧でなくても・・それが自然なんだ・・。

ダメでもいい・・。

前に進めばいい・・。

いまできることをやろう・・。

後輩のために・・。

カンペキでなくても後輩は分かってくれるだろう。

そう思えたら一気に私の周りに立ち込めていた靄はすっかり消えてなくなった。

ユーモアのわかるひと

確かに笑いが少なかった

けど

中電にきて中電のひとはみな底抜けに明るい

楽しみことをしっている

合宿でのジュースじゃんけん

五十嵐さんの

疲労こんぺいとう

もう何もクエン酸

おまえコーヒーのモカ飲んだか。飲んだよ。おまえモカ・・。

痛烈なオヤジギャグ・・。

一通の手紙、ばーちゃんの手紙が私の閉ざされた心を開いてくれた。

そう感じた・・。

福岡前のテレビ局の取材で私はこう話している。

最後の箱根では自分が走れなくてチームにものすごく迷惑をかけたんです。たすきをつなぐことができなかった。後輩につなぐことができなかった。

だから今回のマラソンは、たすきはかけていないけれど、

こころのたすき

をかけて走り、後輩につなぐことができたらなと思っています。

後輩にこころのたすきを

つなぐことができたらそれは私にとって最高の喜びです。

そう答えている。

福岡国際マラソンは、2時間14分41秒と結局のところ惨敗であった。やはり大学四年のブランクがながかったためか、しっかりとしたスタミナを蓄えることができず、30キロ過ぎに先頭集団から脱落し、足にもまめをつくり、フラフラになりながらゴールを目指した。そんな状態でも決して諦めることはできなかった・・。たとえ結果が完璧でなくとも後輩にこころのたすきをつなぎたい。完走・・感走したい・・。そう思って走り続け、走りきることができた・・。ゴールのあと・・。

情けない先輩の走りだったけれど、たすきはつないだよ。あとは頼んだよ。福岡の空を見上げながら、私はそうつぶやいた。

こころのたすきをつないで・・。

2002年箱根駅伝

私は沿道で応援した。

そこにはたくましく成長した後輩たちの姿があった

こころでたすきをつないでいた

魂がこもっていた

こころで走っていた

わたしが後輩たちに伝えたかったことを

後輩たちは自分たちのちからでやり遂げていた

三位・・。

順位よりも

後輩のこころに感動した・・。

よかった・・。

これで箱根に思い残すことはない・・。

箱根駅伝は私の呪縛を解いてくれたのと同時に

こころの在り方の大切さを贈ってくれた。

箱根駅伝ありがとう。

箱根駅伝は私にとってかけがえのない恩師だ。

恩師に恩返しするためにもマラソンで世界に通用するマラソンランナーになる

この夢を実現したい

才能はつくれる(ワールドウイング:小山先生のことば)

感性を豊かにして創造していく(ニッポンランナーズ理事長:金 哲彦さん)

人間うまくいっている時はろくなことをしない。しかし人間・・。うまくいかなく悩み苦しんでいる時・・。ひとは真実にめぐり合う(プロゴルファー中嶋さん)

生きる喜び 生かされている 今に 感謝 (会津の東北治療室 森田先生)

本気でやってごらん 本気でやれば 楽しいし 疲れないし たとえ疲れても

疲れがさわやかだから・・。(あいだ みつを)

多くの方々が、私に力を貸してくださって生きている

そのことに感謝し、これからも走り続けたい。

感謝する日本の心を走りで表現できれば、それは私のこの上ない幸せです。

ありがとうございました。

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